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【読了】メメント・モリ(DAY237)

昨日、ライティングの勉強会「ライティングギャラクシー」の添削会(オンライン開催)でこの本の話が出て。


改めて読み返してみた。

・・・というより、「読む」じゃないんですよね。

感じること。


私はあんまり本に「正解」を求めるのが好きじゃなくて、
「ここのページのこの場所はこう解釈する」って決めつけられるのがあんまり好きじゃない。

(こんなこと言ってるから、
小学校の時に読書感想文が書けなくて学校の廊下に正座することになったんだと思うけど・・・)


「感じる」は強要されることじゃない。

それぞれの感じ方があっていいじゃない。

それに対してジャッジするのは、ちょっと違うんじゃないかな。


読書感想文を「競技」として見るなら、別の話だけどね。


・・・閑話休題。


『メメント・モリ』との出会いは東日本大震災の年まで遡ります。

野口嘉則先生の勉強会で教えていただいて。

そのときは、ちょっとトラウマ的なこともあったので、この本がしんみりと染みていった感じ。

その翌年、母の養父の50回忌を記念してタイに出かけて。

(海外で仕事をする人で、タイが亡くなる直前に元気に勤めた最期の赴任先だったそうです)

チャオプラヤー川の濁った太い河を眺めながら、『メメント・モリ』もこんな感じだったんだろうな、とぼんやり思ったのを覚えています。


人間や動植物の感情や欲望、ついでにその肉体なんかもごちゃまぜに運びながら、ゆったりと海に流れ込んでいく感じ。

昨年、仕事で再びタイに行かせていただいたときも、同じことを感じました。

生きることに対してたくましいからこそ、河はすべてを受け止めて流れていくんだなあって。

日本の清らかさとは異なり、どこか猥雑さも孕んだ河。

そんな懐の広さと、花火を終える直前の名残惜しさのような感情が、生命の力強さに還元していくんだろうなと感じました。



添削会でだいちゃん先生が言った言葉、

「シを意識するからこそ、自由になれる」

これを想いながら、メメント・モリの本を読みました。


感じ方も、愛し方も自由だなと。

改めて感じました。


私が持っているのは古いヤツ?なので新しい版とは異なるかもしれませんが、110ページが好きです。



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