選ぶことのできる女



人と人が、同じ空間で同じ時間や話題を共有することになんて、たいした意味はないのかもしれない。

わたしにとってそれは卑屈な意味ではなく、肩の力を抜いて、ふわっと居られるそんな場所を求めていて、今までしてきたようにそこで何かを成し遂げたり、なにか強い感情が生まれたりしなくても「ただ居るだけでなにか暖かい気持ちになれる」ということを大事にしたくなってきたんだろうと思う。


それはわたしが人間的として生きてきてやっと余裕ができてきたってことのような気がする。

20代のわたしは「予想もしていなかった恐怖や裏切りが、唐突に起きること」が極端に怖かった。不安だったので、対策のために自分を鍛えたり多くのルールを課した。

ただそれがここ1,2年のゆっくりした時間の中でその強迫観念に近い感情がとても落ち着いてきた。


そうしてふと「やはりわたしはトラウマを抱えていた。でもそれが克服されつつある」と気付いた。

トラウマというのは、旦那と結婚する前に付き合っていた人のことで、わたしと付き合っていたけれど、ほかの人(思えばそっちが本命だけど)と入籍された、ということ。その人は酒癖も悪くて、酔った時に暴言を吐いたりわたしをけなしたり自尊心を傷つけるようなことを言ったりする人だった。

そもそも「トラウマ」とも認めたくなかった、けれど実際去年くらいまでは、彼に似た人をジムで見かけたら怖くて心臓がびくびくした。認めたくなかった。彼を憎みたくもなかったし、自分の弱さも認めたくなかった。酒のつまみの笑い話で、終わらせたかった。

それを認めたり怒ったりかみ砕いたり放ったり、自分のなかで消化する時間ができたおかげで、わたしの中からそれが薄れてきた。

人と、もうすこしちゃんと関わっても怖くないと思えるようになってきた。

いやなことは嫌と言えて、居たい場所も会いたい人も、選べる私になったんだ、そう思えるようになった。そもそもそれが本来のわたしだったのかもしれない。

これからはもっと自分を大事にした選択をして、めいっぱい自分という存在で楽しんで生きていくと思う。


おわり






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