歴史を塗り替える事は過去を振り返る事 ~松井秀喜の175本~

大谷翔平の本塁打数が4/10現在174本となっている。
冷静に見てしまえばチームで主砲を何年も打っている選手にしては目立ったものではない。彼の所属しているドジャースでも屈指の本塁打打者であるデューク・スナイダーが8年、ギル・ホッジスが戦争での従軍をまたぎながら9年で達成した記録である。時代を代表する長距離打者であれば楽々乗り越えたハードルであろう。
しかし日本においてこの次の本塁打である175本というのが一つの到達点となっている。それは日本人のホームラン王としてアメリカに渡ったゴジラ、松井秀喜のメジャーでの通算本塁打数だからだ。

今の20代や30代の前半くらいの若い子たちにはピンとこないだろうが、私たちのようなアラフォーに入る人々であるならば松井秀喜、という名前の輝きはそれこそまばゆいものであろう。
今の若い子には驚かれるかもしれないがイチローより松井の扱いのほうが大きかったのだ。というよりパリーグの、それも阪神のある関西地区所属の選手があれほどまで取り上げられるイチローの方が珍しかった。
「巨人は嫌いだが松井は好き」
と公言するファンも少なからずいたほど松井秀喜という存在は、90年代から00年代にかけて大きかったのである。

元々松井秀喜といえば高校野球から伝説の選手であった。
過去多くの打者が甲子園の土を踏んできたが、一試合全ての打席を敬遠されたのは彼くらいのものだろう。相手校の明徳義塾は多少満塁になるなどのリスクを理解したうえで全打席敬遠になっている。
当時でこそ「正々堂々と勝負しなかった」と明徳義塾高校の馬淵史郎監督は批判されていたが、松井秀喜のキャリアを振り返ると十分すぎる采配であったといえよう。そう思わずにいられないほどの選手であったのだ。野球の技術やトレーニング法が確立された今でもそこまで思わせる選手というのは出ていない。
勿論時代の流れでそういった破天荒とも捉えられない試合方法を行いにくくなった、というのはあるだろうが、それでも松井秀喜という打者は
「バットを振らせると何が起こるか分からない」
「ホームラン一発でチームの勝運を変えてしまう男」
と呼べるほどのものがあった。ゲーム、実況パワフルプロ野球には昔から強打者を象徴する能力として「威圧感」というものがあるが、まさにその能力を持っていることが似合う、飛びぬけた高校球児だったのだ。

1992年、そんな彼が読売新聞のお膝元たる読売ジャイアンツに入ったことは彼が稀代のスターになる大きな要因でもあっただろう。
90年代は今とは違いまだメディアの主流は新聞でありテレビであった。そしてプロ野球という意味では元々巨人を中心とした構図になってしまっていたセリーグにおいて甲子園での伝説をひっさげた彼がやってきたのはまさにスター誕生のきっかけであった。
面白いもので松井秀喜自身は少年時代阪神の活躍を見ていたから阪神ファンかつ掛布ファンであったのだが。

しかも松井の指名を勧めたのがほかならぬ長嶋茂雄なのだから余計に神がかっている。ミスタージャイアンツと呼ばれた長嶋が伝説化した高校球児を、半ば彼の発した鶴の一声で連れてきて、そのまま大成させたのだから。

ドラフトの話をすると松井一人拾えただけでも大成功と呼べる巨人のドラフトだがこのほかに一時期のみ中継ぎの一翼を担う西山一宇(NTT四国・4位)、00年代の台所事情を支えた捕手の村田善則(佐世保実業高・5位)など成功している。

閑話休題。
彼は一年目から二桁本塁打を打ち……、とそこまではwikipediaのほうが充実しているからそちらを参照すればいいであろう。裏を返せば日本のプロ野球を牽引した選手の一人であったのだ。
勿論彼には多くのライバルがあてがわれた。落合博満はとかくにせよ近鉄石井浩郎、ヤクルト廣澤克己、そして同じように高校時代騒がれた元木大介、80年代高校野球のスターであり西武でも丁重に扱われてきた清原和博といった先輩の面々、シェーン・マックといったメジャーリーガーやドミンゴ・マルティネスといった日本でも結果を残してきた外国人選手、後輩にも慶応義塾大のスター高橋由伸、東海大相模からやってきた原俊介など活躍していない選手含めると過去V9時代の森祇晶がごとく多くの四番候補をぶつけられており、彼らをはねのけながら2000年には四番として固定されていた。

意外なことに調べてみると松井秀喜は90年代は三番が多い。
その生涯打順数を見ても四番は470の歴代7位であり、三番の719試合に大きく水をあけている。(参考、日本プロ野球私的統計研究会)
それがFA時代の幕開けと巨人の獲得傾向を見せている。
最終的に福留孝介(当時中日)に首位打者こそ取らせなかったがあわや三冠王まできかけていた。
落合博満から遠く離れた、巨人からしたら王貞治の時代まで遡らなければならない三冠王に高校時代から騒がれていた彼が手に届きそうになったのだからまさにエリートがそのままエリート街道を突っ走った結果でもあった。

この姿に日本は酔いしれた。
今だから話せる話でもあるが、私も「かっとばせキヨハラくん」など野球を題材にしたギャグ漫画家で今は週刊ベースボールなどで野球コラム漫画を掲載されている河合じゅんじ先生の「ゴーゴーゴジラ!マツイくん」で育った世代であったので、やはり松井秀喜という選手に対する思い入れも強いものがあり、この時の福留が首位打者を奪っていった時に
「なんで水を差すのか。どこぞやの選手とも知れぬやつが」
と思ったものである。今考えると福留孝介も高校の時代から騒がれて大阪社会人野球の雄である日本生命で打っていたから彼も相当のプリンスなのではあるが。
今だと恐らく「かの新人時代の長嶋茂雄における田宮謙次郎がプロ野球選手の根性を見せた」と評しているのだろうなあ、と過去を振り返ったり。やれやれ無知とは恐ろしい。
そんな打者だったのだ。

そんな彼が2002年、満を持してアメリカに渡るというのだからその期待たるやすさまじいものであった。
しかも所属先はアメリカンスポーツの雄、The americanと言いたげなチーム、ニューヨーク・ヤンキースだ。メジャーにある多くのキャップアイコンは知らなくともヤンキースのNYマークは野球を知らない人ですら知り、被っている。そのチームに行くというのだから。ベーブ・ルースのいた本塁打王の国に行くというのだ。(今思うと松井でルースが掘り起こされ、大谷でレッドソックス時代のルースが掘り返されるのだから面白いものだ。)
そうでなくとも2001年にはイチローと新庄剛志(現北海道日本ハムファイターズ監督、当時阪神→NYM)がアメリカに渡っており、イチローは言わずもがな新庄もそこそこ活躍していたというのもあって、日本の中心選手たる松井がアメリカに渡ったらどうなるのだろうか、という期待は強かったのだ。
それはこの後上原浩治、高橋尚成以降の選手がメジャー挑戦していないことから巨人、それも野手でのメジャー挑戦に影響するほどと言われるほど彼の期待値は高かったのだ。

イチローはミートコンタクトに優れていたが、決してホームランを狙う選手ではなかった。一番打者という得点の突破口にはなることはあれど直接点を取る立場の選手ではなかったのは言うまでもなかろう。
しかし松井はポイントゲッターだ。その彼がアメリカに渡るというのだからそれは期待値も上がるというものだ。そうでなくても球団の多くが外国人にマイナーやメジャーの控えを四番に据える2000年代という時代を考慮しても「メイド・イン・ジャパン」の四番がどれだけ活躍できるか、というのは誰もが興味を引いたのだ。

だからこそその松井秀喜が16本というホームランに終わったというのは期待を削ぐものであったのは容易に想像が出来るだろう。
すでにメジャーで活躍しているジェイソン・ジアンビーほどはいかなくても日本で2安打のアルフォンソ・ソリアーノくらいは打ってくれるだろうという期待はあった。だが、ふたを開けてみればどこにでもいる外野手だった。新人王争いもアンヘル・ベロアとかいうどこから来たのかもわからないやつにかっさらわれた。そのくせオールスターに出ていて、交換用のバットを持ってきたはいいもののだれも交換してもらえなかった、という事がネットに文字としてさまよった。
ただヒット数はやけに多い。
走れないがちょっとだけホームランを打てるイチローがそこにいた。

実は松井がアメリカに行った初年度、106打点という打点数をたたき出していたりする。
この打点数はジェイソン・ジアンビーの107打点に次ぐ2位、三位にホルヘ・ポサダの101打点と考えれば打率、本塁打の割にチームに貢献していることが分かる。
打率も.287だがこれがチーム三位の打率と考えると貢献度はかなり高い。その上にはデレク・ジーターの.324とソリアーノの.290しかいないのだ。
彼がどこからやってきたか分からない新人の一人で考えたらこれほど将来有望な選手もいないだろう。後年松井はヤンキースに大切にされていくがそれは日本人の期待とアメリカでの期待の差というものだ。
「日本は球場が狭い(これもドームが増えた当時では偏見の部分がある)からホームランがよく出るためにアメリカではあまりだが、それでも日本仕込みの打撃巧みさがある打者」
がアメリカでの初年度の松井秀喜なのだ。

想像してほしい、自分のチームに海外からやってきた助っ人が.287、16本、106打点という成績を残した姿を。ずっとチームにいてほしいと思うのではないだろうか。ホームランが欲しいと思うのは想像する我々ですら「ちょっとぜいたくかな?」と思ってしまうだろう。

その本塁打も二年目には31本に増える。打率はなんとチーム一位。本塁打に関してはチーム三位だ。
それでも日本では「そこそこのバッター」になってしまったように映ってしまった。それもそうだろう。打撃十傑、それも本塁打には必ず名前を残していた男が全く名前を出せないのだから。打点でぎりぎり10位に入るような状態だ。

外国人助っ人などを調べている筆者はこれに似た成績を覚えている。
それはボブ・ホーナーだ。ホーナーの成績がこれに近い。30本近い本塁打。打率は.300行くか行かないか。打率と打点を落として本塁打を増やしたのがホーナーに近い。
そう考えたら松井秀喜はメジャー現役クラスなのは想像もしやすいが、いかんせん日本のゴジラがアメリカで苦戦する姿をここまで想像出来た人は少なかったろう。苦戦するにしたって打撃十傑の中でのものだと思っていた。
それがメジャーの壁でもあったのだが。
もうなにがなんだかわからないレベルで、それこそアメリカ人たちですら凌駕する勢いでヒットを量産するイチローと比べるとどうしても見劣りしてしまうためにメディアでの扱いも落ち着いてきてしまっていた。

そんなチームで二、三位を争っているタイミングで06年、守備の際に右手首を骨折してしまい一年を棒に振っている。
ここからメジャーの情報はイチローだけに収束していった記憶がある。
なんなら誰も口にしなかったが「松井は終わった選手」扱いされていたような記憶すらある。怪我も癒えて復帰しても代り映えのしない成績の彼に期待する日本人が増えていったように思える。
「なお、マ(なお、マリナーズは敗北した)」というネットスラングが出来るほどイチローの活躍は衆目に晒される一方、松井の活躍はどんどん隅に追いやられていった。

ただ野球史や選手の成績を個別にみるようになって改めて言いたいのは松井秀喜は確かに目立つような打者ではなかったものの、活躍していなかったというには語弊があるという事だ。
こと日本はメジャーリーグを
「日本より大きなすごいリーグ」
と解釈しすぎる傾向にある。メジャーでエースをする投手や打者が世界一である、とは言い過ぎにせよそれに近い感想を持っている印象すらある。それは必ずしも正しいとは言えない。
ア・リーグとナ・リーグでは投打の在り方も違うし、なんなら同一リーグですら地区で考え方が違う。例えば日本では「二番打者最強論」がかなり叫ばれているがどのチームも必ずそれでやっているわけではない。それをあくまで最新の知識として蓄えながら選手の置き方を変えていたりする。シンシナティ・レッズなどは二番に小技の出来るT.J.フリードルを置いてバントを刊行して好成績を残していたりする。これは近年のSNSを見ていて思う事でもあるが「アメリカが言っている」はきちんとどこのチームがどの指標を使って論じているか見ておかなければ素っ頓狂なことをいっているようにも映る。
まさに松井秀喜はそんな印象論で語られがちな打者でもある。

そういう部分を考えると松井秀喜のフリーエージェントはやはり印象を上げるものではなかった。今でこそアメリカのフリーエージェントは毎年のように行われ、その度にチームの勢力図が変わるものと捉えられているが、まだまだ日本的な「ご褒美」の印象が残る当時ではわざわざヤンキースから他の、それも西海岸のエンゼルスとかいうよくわからないチームに行くことは不思議と思う人が多かっただろう。西海岸でドジャースやマリナーズならまだしも、エンゼルス、どこ?くらいの感覚を覚えた人は多かったかもしれない。少なくとも大谷翔平以前のエンゼルスはそんなものだった。
その頃の松井ももうベテラン。前年にワールドシリーズMVPを得たもののそれ以上の成績上昇は期待できなかった。
「アメリカでもっとも有名なヤンキースで絶頂を迎えたのだからヤンキースで終わればいいものを。なにが悲しくて都落ちみたいなことをするのか」
そう思った人も少なくないはずだ。メジャーリーグなんてよくわかっていない当時の筆者もそう思った。

その後はオークランド、タンパベイに行くが活躍できずに引退していく。
ただ、イチローの頃に比べて報道が多かったようには思わない。アメリカのどこか遠い地で、ゴジラと呼ばれた男が引退した、くらいだった記憶がある。
日本全土を巻き込んでの引退はイチローまでもう少し時間を要する。

そんな、日本の期待を背負って出した175本という記録であった。

そんな思い出語りなども含めてつらつら書いてきたが、今の目線で松井秀喜を見返してみると実に感慨深い。
丁度日本ではマーク・マグワイアやサミー・ソーサの本塁打争い、バリー・ボンズ前人未踏の70本塁打など「メジャー≒ホームラン」のイメージが強かった時代だ。彼らがどちらのリーグに所属していたのか、すら知らないといってもいい。なんなら彼らとヤンキースは同じリーグと勘違いしている人がいてもおかしくないくらいメジャーに対する解像度は低い。振り返ってみればア・リーグはアーロン・ジャッジが出てくるまで62の壁を破れていないのだから必ずしもホームランをバカバカ打てる土壌であったわけではない。

それにも関わらず「松井は30本くらいは打てるだろう」という期待を込められていた。20代後半という年齢も考えれば一番いいタイミングで行ったとみられてもいい。
日本のゴジラは本塁打王に絡めなくてもいつも争いの常連に食い込めると思っていた。「メイドインジャパン」がどこまでも通用すると思っていた時代の寵児だっただろう。
実際は通用した。十分すぎるくらいに活躍した。
しかし、トヨタ自動車が世界の車産業に求められる実績のように、日本が松井に求めたのは世界の強豪と渡り合える成績であった。どちらかといえば中距離打者的で本塁打よりも打点を優先させた方が活躍の幅が広がりそうなシェアヒッターであったにも関わらずだ。
「ローランド・エメリッヒ版ゴジラは怪獣映画としては出来上がっているが「ゴジラ映画」ではない」
この評価が松井秀喜と被る。

その記録を大谷翔平は超えようとしている。
松井秀喜というエリート中のエリートが苦しみぬきながら生んでいった175本塁打を抜き去っていこうとする。
そして松井秀喜という選手にスポットがまた当たった時、我々はどう評価するのか。大谷翔平という才能に松井秀喜の記録は飲まれていったのか。彼の活躍によってスポットライトが当たったとみるのか。
それはその人々にしかわからない。

ただ、私はこの稿を書く上で気付いた事がある。
大谷翔平のシーズン最多打点は21年の100だ。
松井秀喜の初年度の打点にすら至れていない。
175本の記録を抜くとき、また追い抜かれる選手を振り返る事が出来るからこそ記録を比較するというのは楽しく、そして価値のある事なのだ。

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