愚者の鈍行

その日はなんともスムーズに外出の準備をし終えていた。
私はいつだって、出かける直前になってようやく、思い出したかのように準備をし始めるものだから、結局いつも上手い具合に外に出ることができない。
そんな私であるが、その日は珍しく、ゆとりを持って支度を済ませていた。

それでも用心深い私は、何か忘れ物があるような気がしてならなかったので、部屋の中をぐるりと見渡した。
すると、机の上に死骸のように横たわる財布が目に入った。

しまった、しまった。

と財布を拾い上げて鞄の中に入れようとすると、鞄の中には、そもそも何も入っていなかった。
慌てて諸々の必要なものを集めて鞄へ詰め込んだ。
洗面台の前に立ってみると、髪の毛も布団を出た以来、手付かずのままで、中型の野良犬のようであった。
準備をしたつもりが、ただ服を着て空の鞄をぶら下げたに過ぎなかったのである。

はて。

脳みそが腐っているのかもしれない、そう思って耳の穴から指を突っ込んで、脳みそを二、三度小突いてみたが、どうやら正常に作動しているようであった。


そうだ。


閃いた私は、慌ててキッチンへと向かった。
どういうわけだか、その日は起き抜けの一服さえしていなかった。
成る程、具合がよくないわけであった。
やれやれ、私は大義そうに煙草を取り出して、口の中へ放り込んだ。

だが何故だろうか、その時、私は火をつける気分にならなかったのである。
私は煙草を元あった場所へと戻した。
そしてそのまま、煙草を持たずに出かけてしまった。


その日に会った友人は生粋の喫煙者であり、私の前で何度も煙草を吸ったり吐いたりしていたが、どうにも吸いたいという気持ちが湧いてこなかった。
まるで自分は最初から喫煙者ではなかったとでもいう具合に、人ごとのような心地であった。
明日にはきっと、今日の分もまとめて吸いたくなるだろう、そう思いながら眠りについた。


結局それから三日が経った。
その間、煙草を口にすることはなかった。
体の中にニコチンは、微塵も残っていなかった。
私は煙草をやめてしまったのだろうか。
残った煙草を眺めながら私は思案した。

すると私の中にある考えが浮かんできた。
私はずっと、煙草というものは、私の意思に沿って付随しているものだと思い込んでいた。
煙草を吸うのも、やめるのも全て私の意思であり、煙草はただそれに従っているだけだと考えていたのである。
だが、どうやらそれは間違いであったようであった。


私は煙草にやめられたのである。


煙草の方で私を絶ってしまったのだった。
そうだ、私は煙草に愛想をつかされたのだ。

そんな話は聞いたこともなかった。
煙草に意思があるなんて、そんなことは夢にも思わなかったのだ。
愚者。私は愚者である。
ぐしゃぐしゃ。

去るものは追いません、なぜならそれが私の主義であるから。
行くならばお好きにどうぞ、オールドスポート。

ほなさいなら。





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