見出し画像

知らなかったんだと、知った夜。

年末年始の帰省中のある夜、ハイボールを飲みながらテレビを見ていた。
夕食はとっくに済み、両親はもう休んでいる。仕事の電話を終えて戻ってきたきょうだいが、「ちょっと小腹空かない?」と聞いてきた。言われてみればそんな気もするが、深夜のカロリーは良くないよなあ・・・と葛藤していると、台所から弾んだ声が聞こえてきた。

「どん兵衛があるよ!」

思わず目を見合わせる私たち。気持ちは一瞬で通じ合う。
「20分どん兵衛やる?」
「やろうやろう!」

「20分どん兵衛」とは、その名の通り、お湯を入れて20分待つ、カップ麺のどん兵衛のこと。まだ小学生だった私たちが、つくっているのを忘れて遊びに夢中になってしまったことから偶然"発見"された。
ひと遊びしたところでやっと思いだし、おそるおそる蓋を開けてみると、麺はお湯を吸いきってのびきり、スープは熱いまま三分の一ほどに減り、おあげはパンパンにふくれていた。見たことのない状態になった「それ」に私たちはおどろき、おそるおそる食べてみると、大失敗な見た目に反して、とてもおいしかったのだ。
スープを吸った麺はやわらかく、少しふわっとしていて、でもぶよぶよにはなりきらず、唇を通るその食感がなんとも心地よい。味もよく染みている。
すごくおいしい!普通につくるよりもこっちのほうがいいじゃん!と興奮しながら、私たちは夢中で食べた。なんともバカなきょうだいである。

あのどん兵衛が忘れられない。また食べたい。でも、お行儀の悪いことが嫌いな母は、きっと許してくれないだろう。
母親の目の届かないところでこっそりと、と思っても、子どもたちだけで留守番することが当時はなかったし、そもそもカップ麺の買い置きをあまりしない家でもあった。さすがに家の外ではやらないほうがよさそうだということは、幼い私たちでもなんとなく感じていたので、そうなると20分どん兵衛のチャンスはもう永遠に無いように思えた。
食べられないと思うと、憧れは余計に強くなる。いつか大人になったら・・・と私たちは憧れ、未来を夢見た。

そんな夢も、中学、高校と成長するにつれて、少しずつ手が届くものになっていく。友人の家で、学校の部室で、母の留守中に。私たちは時々こっそりと、20分どん兵衛を楽しめるようになった。もちろん母には言わなかった。
そして社会人になり実家を出て、ついに自由の身になった。いつでも好きなものが食べられる!と歓喜したものの、飲み会が増え、自炊の面白さに目覚め、晩酌メニューを追求しはじめ・・・・いつのまにか、どん兵衛との距離は遠くなっていた。



「どん兵衛があるよ!」
きょうだいの一言で、懐かしい記憶が一瞬で蘇った。すでにお湯を沸かしはじめている。おあげを麺の下に置きなおしているのを見て、そういえば私が教えたコツだったと思い出す。
お湯を入れて待つこの時間もひさしぶりだ。お互い、もう十年近くどん兵衛を食べていないことがわかり、気分はさらに盛り上がる。もしかしたら、こうやって一緒に食べるのはあの日以来かも。懐かしさと楽しさでワクワクしてくる。さあ、タイマーが鳴った。

うやうやしく蓋を開けていく手元を、私は横から覗きこむ。

・・・・・?!

あれ、思ってた見た目とちょっと違う? あまりふやけた感じがしないね。いや、こんなもんだったかも?
戸惑いの表情を浮かべるふたり。とりあえず食べてみよう。あっちが一口目をすすり、待ちきれない私が横から箸を伸ばす。

・・・・・。

衝撃だった。20分間おいたはずの麺が、全然のびていないのだ。つくりたてのようにつるつるもちもちだ。
さらに5分待ってみたが、麺はちっともふやけない。状況が飲みこめず絶句する私たち。目の前にはおいしそうなどん兵衛。そう、麺もスープも、驚くほどおいしいのだ。でも、これじゃないのだ。
「すごくおいしい」と「これじゃない」というふたつの現実に混乱し、しょんぼりしている四十代がふたり、なんとも間抜けな顔をしていた。深夜に呆然とするバカなきょうだいの姿がそこにあった。



麺の喉ごしがいい。
スープを吸ったおあげがハイボールに合う。
お出汁のうまさも素晴らしい。
ひとつのどん兵衛を分け合って食べながら、私たちはある結論にたどりついていた。

「どん兵衛はさ、進化を続けてたんだよ。麺がのびないように。スープがうまくなるように。もっとおいしくなるように。
うちらが知らないあいだに、変わってたんだよ。うちらだけが、昔のままだと思ってたんだよ。いつのまにか追い越されてたんだよ」

そう、私たちがぼーっと生きてるあいだに、どん兵衛は変わり続けていたのだ。研究を重ね、試行錯誤を繰り返し、不断の努力で驚くほどの品質を実現していたのだ。メーカーの熱意と技術力に頭が下がる想いだった。

そしてきっと、どん兵衛だけじゃないんだろうと話した。私たちが知らないうちに、世の中のいろいろなことが、昔から親しんだものが、少しずつ変わり、変化し、進化していたのだろう。昔のままだと思いこんでいるだけで、実際は気づかないままにそれらの恩恵を受けているんだろうね、ありがたいことだね、と。

「でも、20分どん兵衛、もう一回だけ食べたかったな」
きょうだいがボソッと言った。
「そうだね、ちょっとさみしいね」と私は返した。
そしてすぐ、「いま食べたらそんなにおいしくないかもよ」と笑いあった。笑いながら飲み終わり、就寝した。その夜、ひさしぶりに子どもの頃の夢を見た。

翌朝、台所で空のカップ容器を見つけた母は、眉間に一瞬しわを寄せ、誰が食べたのか聞いてきた。
「ふたりで食べたんだよ。」
「そう、ちょっと夜食にね。」
私もきょうだいも、それ以上は言わなかった。昨夜あった出来事も、ふたりで話したことも、なんとなく黙っていた。母には言わないでおこう、その直感は、幼かったあの頃と変わっていなかった。そして20分どん兵衛は、私たちの遠い思い出の中で、本当の夢になった。


もうこの世には無いものでも、無いことを知らなければ、それは存在しているのと同じことだ。食べ物も、景色も、人も、時間も、それに対する自分の気持ちも。
無くなったことを知らないから、失わない。
自分の世界にはずっと在る。
それを思い出してしあわせになれたり、ワクワクしたり、誰かと話せたりする。
私たちにとっての20分どん兵衛は、そんな存在だった。

本音を言えば、知らないままでいたかった気も少しだけする。
でも、きょうだいとの楽しい夜になったから、これはこれでよかったのかも。
どん兵衛、すごくおいしかったし。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?