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生命を維持する事にまずは全フリする事に決めた



男鹿を出て上京しアパレルで働くようになって、いつか東京で自分の店を持つんだと躍起になっていた時に奥さんとの間に第一子を授かりました。
もうすぐ、初めての我が子に会える事を楽しみにしながら、当時勤めていた会社の本社(山梨)へ出張中それは起こった。

2011年3月11日東北大震災

当時はネクタイの会社の企画、営業をしていたので、東京支社と山梨の本社を行ったり来たりすることが多く、ちょうどその時も本社でネクタイの生地(柄)をピックアップしていた時だった。

生地を織る織機が一斉に止まり、ゴゴゴという地鳴りと共に会社自体が大きく揺れはじめた。生地をかけていたラック事倒れてきそうなのでとにかく一旦外へ。

駐車場の車もぐわんぐわん揺れてて、地べたに張り付いて動かないことしか僕らには出来なかった。

一旦揺れは収まったが、頻繁にくる余震。
この辺一帯の電気は止まり、携帯の電波も無くなった。
帰りの高速道路も通行止めという状況になり、社長の家に泊まらせてもらうことになった。
社長の家に向かう途中スーパーに寄ったが、暖房機器(反射板ストーブ)を買い漁る人たちでいっぱいだった。
考えてみたら当たり前なのだが、レジは電卓をたたいて全て手打ち、ドアも自動ドアを客が手動で開け閉めしている。当たり前と思ってた風景が実は電気があっての当たり前だと改めて気付かされて怖くなった。


社長の家にいても停電中の為、テレビも何も見れない上、相変わらず電話も繋がらないし状況もわからない。
日本のどこでどれぐらいの何かが起きて、どうなってるのかさっぱりわからないまま夜を迎えた。

やっと奥さんと電話が繋がったのは20時ごろ。お互いの状況を確認出来たのだが、
奥さんの勤めていたところからも電車が動いてないので会社に泊まることになったとの事。

まずは少し安堵し眠りについたが、状況が状況だけにうつらうつらと朝を迎えて、気づいたら朝4時ぐらいになっていた。

寝ていた仏間の電気がパッとついたことで、一瞬で目が覚めてテレビを急いで付けてみたら、
大きな津波の上に炎が乗ってて、街を呑み込む映像だった。

テレビから流れてくる映像と言葉と余震とJアラートと、情報が多すぎて脳内での処理が全く出来ない。

「東北で大規模な地震...」
「津波が到達しました...」
「余震が、、安否が確認出来ません...」
「福島では、震度6強の...」

なんとなく状況を把握できてきた頃には、涙が止まらなくなってた。
ただただ無力を感じ、頭が整理できていないままだったが、高速道路がなんとか復旧し、東京行きの高速バスも出始めたということで飛び乗って東京へ戻る。

違和感

ある程度東京もダメージがあるものとイメージしてたものの、なんとなく通常運転な感じがしてすごい違和感を感じた。

あのテレビで観た映像は、あくまでも映画の中で起きていることであって、自分達の住む世界じゃないところで起きてるものだから、エンタメそのものだから自分達は普通に仕事しにてればいいんだ、みたいな空気。

ある人からは
「東北であんな事になってるんだからこそ、俺ら東京に住んでる人間が仕事を頑張って経済回さなきゃならないんだ。」と。


一理あるとは思う。

でも僕はその言葉を腑に落とすことはできなかった。

震災や有事が起きても社会を回す事が大事とされる事や、社会人は社会の歯車にならないと失格なんだというような全体主義的な価値観が非常に歪に見えてしまった。

一回、歪に見えはじめた構造を気のせいにしてやり過ごすことは出来ない。

そんな中、嬉しい待望の第一子(娘)が誕生。

娘の笑顔や仕草は、自分達が抱えているいろんな問題やモヤモヤを全て精算してくれるぐらいの真の癒しだ。

加速する違和感


一方で、今の自分の置かれている事にさらに疑問を持つようになった。

"自分の人生はこれでいいのか?"
"仕事行ってる間に地震が起きて家族に会えないまま自分は死ぬかもしれないけど、子どもの為にお金を作らなくては!""子どもの成長過程も見れず、自分の家族を養う為に社会を回す為に仕事をし続けることでお前の人生は幸せだったか?"と、俯瞰してるもう1人の自分がずっと頭の中で語りかけてきていた。

さらに追い討ちをかけるように、原発事故

今度は"放射能は大丈夫か?""食べているものは安全か?""子どもを守れるか?"と。
毎日、食材の安全性を気にするようになり、(この時から食を強く意識する様になってきた)外食も控えるようになり、奥さんは家を出なくなり、僕も会社に行きたくないし、なんだかずっと上の空というのが1年ほど続いた。
その当時の僕は若干ノイローゼになってたんだと思う。

「男鹿に帰ろう」


奥さんがそう切り出してくれた。
奥さんの実家は岩手県の奥州市なんだけど、放射能の影響もやっぱり気にしてて、影響の少なそうな場所として男鹿を選んでくれてた。

改めて、男鹿は僕の地元なんだけど、立地でいうと秋田県の端っこで、ぴょんとはみ出てる半島。
山と海も近く自然が沢山あり、幸い食べるものには困らなそうな豊かな土地があるところ。
近年ユネスコにも登録された"なまはげ"の文化で有名なところでもある。

東京でこさえた借金うん十万と、集めに集めた古着や家財をもって、男鹿に帰ることにした。
(仕事も決めずに)

コンセプト

僕らは自分達の"人生のコンセプト"を大きく変更する事にした。

"夢を持って生きる"から"生命を維持する為にまずは生きる"へ。

"東京でいつか自分達のお店を東京に作って一旗あげる"→"大事な家族と一緒に好きな事をしながら笑いあって楽しく生命を維持する"へ

お金はないけど、子どもの成長を見ながら、大事な人との時間をしっかり取りながら、1分後に死ぬ運命だったとしても後悔しないように。

良い人生だったと思えるように。


田舎では仕事がないから生活が出来ない

経済的に家族を持てない、やりたい事はあるけど田舎じゃ無理とか言われがち。

もちろんそんな現実もあるだろうけど、生き方のハードル(自身の経済のサイズ)を下げれればそんな厳しくないように思う。

僕らは、住むところはブルーシートで良いし、お金はないから海で魚取って、野草食べて、季節になったら山菜採って食べて生きるぞって決めて男鹿に戻ってきた。(後から聞いたら奥さんはブルーシートは嫌だったみたい。グレーのシートだったら良いみたい笑)

社会人としては生きていけないかもだけど、人間としては生きていける感じでいいんじゃない。
生命さえ維持できてれば、経済活動は僕らにとってはどうやったってプラス。
何もない田舎で小さい経済圏で楽しく子ども達と大事な人やものをちゃんと養いながら、生きてるってロールモデルがあったら、ほんの少し人生のハードル下がらないかな?

そんなことを思って、

"Own GArment products"と名付けました。

Ownの"O"とGArment "GA"でOGA=男鹿。
消滅可能性都市、"男鹿"で服づくりして生活してるやつがいる、だったら俺もどこ行ったって何やったって生きていけるって人が増えるように。

長くて、くどいいきさつがあってこの考えに至り今9年目になったブランドです。
改めてちゃんと説明すると非常にダサいですね。
それはわかってます笑

このほかにも、きっかけや動機を与えてくれた方がいるんだけどそれはまた今度。

それでは。


縫人-nuito-
という"Own GArment products"の直営店やってます。

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#秋田 #男鹿 #田舎で生きる #服づくり


愛する長女とキャンプの図




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