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友達コンプレックスを乗り超え、noteを書く週末

私はぼっちで散歩をして、適当なカフェに入って日記を書くことが好き。
だけどそれをする私のことを、私は嫌いだった。

一人でかっこいい建物を見上げて、綺麗な街歩いて、これが楽しいなんてなんと惨めな人間なんだって思っていた。
だけど、どうしてもそれをやりたくなってしまう。

ぼっち散歩の習慣は小さいころから傾向はあった。だが、行動範囲が圧倒的に広がった大学生の時期から本格的に活動した。
大学生まで埼玉から出たことのない私は都会的な雰囲気に憧れがあり、都内の東京駅周辺とか赤坂のあたりとか、その辺りを歩いていた。
誘われることで友人と過ごすことはある。ありがたいことに誘ってくれるタイプの友人は結構いると思っている。しかし、自分から行動を起こすとなると、一人で過ごすことを選択することが大半だった。
「友達といないんだね。」
心の中の自分が語りかける。私がぼっち時間を過ごしている間、友人は他の友人とディスニーに行ったり、誰かと過ごしている。
友人と過ごすという選択を自ら取れないことが惨めだった。

友達コンプレックスが原因だ。
友達が多いほうじゃなかった。なかなか友達を作れないことを親は批判した。
何より、自分自身、寂しいやつだと思ったし、周りからもそういうふうに見られている気がした。
でも、友達とずっといるとつかれちゃうんだよね。
長く一緒に過ごすこと苦手で、そんな気疲れしない相手は正直とても限られている。
「旅行に行った」という友人に、誰と行ったのかを聞いて「彼氏と」と言われると安心する。ああ、友達とじゃないんだ、って。友達と長期間一緒に過ごすことをしていないのは私だけじゃない。

『ナイルパーチの女子会』という小説がある。
女は友人との関係の方が重要とされる。女友達がいるかどうか、が人生の価値を決めてしまうようなところがある、みたいな言説に呪いをかけられていた気がする。
本当に、私もその呪いにかかっていた。みんなが友人と過ごしている中、自らぼっちで過ごしている自分は、何かが欠けている。

社会人になって日々時間に追われ、気づいたら散歩の時間がなくなっていた。ストレスも抱え、日々いろんな思うこと、考えることはとめどなく溢れる。
そんなとき、久しぶりにみなとみらいを散歩した。
一気に気分が解放された。
そのとき、ぼっちで過ごすことが自分にとってメンタルを安定させるものなんだと理解した。
この建物はなんだろう、って覗きながら歩く。誰にも気を使わず、自分と会話する。
自分が人を誘えないから一人を選んでいるんじゃなくて、自分が自分を取り戻すために一人を選択しているんだ。
そういう性格であり、個性の一つ。
ご飯を食べるのと同じレベルの、生きるための習慣なんだ。

そう思ってから、毎週末散歩をして日記やnoteを書いている。
自分にとって必要なこの時間は積極的に取っていきたい。

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