演る曲は変えたくない

「やることは変えずにやり方を変える」

最近口癖になってるこのフレーズ。コンサート業界にいると多分誰でも一度は遭遇する「もっと知ってる曲やってよ」に対する自分なりの答えである。
演奏家、特にベートーヴェンとかハイドンのような誰でも名前を知っているような作曲家の作品ではなく、現代音楽をメインとして活動している人はひっきりなしにこういう事を言う客やオーガナイザーとバチバチに殴り合う事になる。
そこで折れて何となく流行りの曲を手癖で自分なりに”アレンジ”して演奏する人を何人も見てきたが、その度に「お前は作曲も編曲も専攻しとらんやろ」「何となくの精度でポップスやるとかポップスのガチ勢に悪いと思わんのか」「そもそもあんな高い学費出して学校出てやることがそれか」と色々思わんでもない。
自分も多分に漏れず散々「もうちょい『わかりやすい』曲ありませんかね」と言われ続けてきたが、頑なに拒否し続け「しょうもない曲やるくらいなら違う仕事する」と言ってオケに手を出し始めたくらいである。自分が食べていくことはもちろん大事だが、自分の愛する楽器が中途半端なクオリティのアレンジやらカバーばっかりやって二流どころか三流楽器として見られる要因に加担するのは我慢ならない。

客は「知っている」と思いこんでいるだけ

以前音楽祭で一緒になった弦楽四重奏がいて、小さい国で結構やりたい放題なプログラムをバカスカとやっていたので「どうやってるんです?」と聞いたところ、彼らもまた「もっと知ってる曲を…」というマネジメントやらプロモーターと日々戦っているという話を聞かせてもらった。その中で面白かったのが、我慢の限界に達したヴァイオリン奏者が「じゃああなたが今パッとベートーヴェンの弦楽四重奏七番の出だしをパッと歌えたらそれやります」と言い放ったという逸話。もちろん言われた側は凍りついたが、そこでその奏者が気付いたのが「作曲家の名前を知っている、またそのバックストーリーを何となく知っているだけで曲そのものを知った気になれる」ということだったそうで、じゃあ現代音楽やるにしても客を「知った気」にさせれば良いのではないか?と言うことだった。知った気、というとなんだか聞こえが悪いけれども、ようは「気にかけるに十分値する量の情報を提供すればいい」ということなのだそう。

観客に語りかける

コンサート業界の敵は何も他のアートフォームだけではなく、ありとあらゆるエンターテイメントだと思う。家で快適に過ごし、好きな物をポリポリ食べながらYouTubeなり何だりで映画見たり、同じ音楽を聞くにしても自分とは比較にならないほどの名手の動画をソファに寝っ転がりながら聞ける現代で、一体どれほどの価値をわざわざ足代と時間をかけて出向いてくれるお客さんに提供出来るだろうか?というのは大事な問だと思う。「やっぱり生音が~」「生だからこその体験が~」というのはまぁ確かにそうなのだけど、そこだけに重みを置いてしまうのは非常に危険ではないか?そう考えると伝統的な「奏者は黙って袖から出てきて一礼してサッサと演奏を始める」というスタイルはあまり現代にそぐわない気がする。そこでやはり第一歩として奏者が自らの言葉でプログラムをプレゼンし、必要とあらば大事なポイントの1つや2つはデモするのが手っ取り早いと思う。
ここで気をつけたいのが、プログラムノート丸読みだったりWikiでも見れば分かるような裏話を語ったりというような「知識を投げつける」行為は逆効果だということ。演奏前に喋る人はちょくちょく出てきたように思えるが、その大多数はこの知識を投げつける行為で観客が突然プログラムに興味を持ってくれるのではと淡い期待を抱いているように見えて仕方ない。どちらかというと語ってる側が熱くなりすぎちゃって専門的な話に突入して客が置いてけぼり、というパターンも見てきた。
この場合大事なのはどちらかというともっと個人的な部分で、「どうして(自分は)この曲に魅力を感じたのか」「どうしてこのタイミングでこの曲なのか」というような「今ここで、自分という奏者がどうこの曲を演奏するのか、なぜそうするのか」というような点に重きを置くと観客の方も「あ、これは他の媒体で他の奏者の演奏を聞いても得られない体験だな」と気付き、もう少し前のめりになって演奏を聞いてくれ、「気にかけて」くれるのだと思う。
もちろん自分のことばかり話して曲の解説がおざなりになっても不味いので8:2くらいの比率がベストだろうか。まだその辺は自分も探っている最中なのだけど。

専門職に敵わない部分はキチンと訓練

簡単に「演奏前に喋る」と言っても奏者は喋りのプロではない点は非常に気をつけないといけない。ダラダラと取り留めのない話をするのはもちろんアウトだし、かと言ってカンペ棒読みでも聞いてる側は白けてしまう。ちょっと見回せばプレゼンの仕方に関してや「カリスマ性を感じさせる喋り方講座」なるものが有料で提供されている時点で「あ、これは専門職がいるカテゴリーの話なんだな」と覚悟しないといけない。慣れてない人は必ず「えー」とか「あー」とか文の最中に入れてしまうし、奏者なんてだいたいみんなコミュ障なんだからもっと酷い場合も多々
自分はといえば観客にリラックスしてもらいたいのと自分がそもそも大ファンだということも相まってスタンドアップコメディアンにコーチしてもらったりしている。第二言語で話さないといけない身にとってはスタンドアップコメディの「なるべく短く、リズム良くそして話の構成を簡潔に」というスタイルは非常に合っていると感じる。当たり前だけどこれもまた一種の芸術なのでプロに敵うレベルかと聞かれたらとんでもない、ヒヨッコにすら到達していない。それでも習い始める前よりはだいぶお客さんからの評価も変わり、多少難しい曲目を演奏しても受け入れてもらいやすくなったなという印象を受ける。
一度音楽祭で同じ日にマチネとソワレで演奏せねばならず、マチネではリラックスした雰囲気だったのでいつも通りお喋りしてから演奏し、ソワレでは「一応格式ある音楽祭のソワレだし真面目にやるか…」と黙って演奏を始めたらソワレの方のお客さんからの評価が散々で非常に驚いた覚えがある。ちょっとした努力次第でこんなにも受け取られ方が変わるものかと良い経験になった。
難しい、新しい音楽をやり続けたいのならプレゼンの仕方に力を入れないとこの先大変になるだろう。力を入れる、といってもただ闇雲に喋れば良いという訳ではなく、喋りといういうなれば違うタイプの芸術の力を借りるのだから多少はプロから教えを請うのが得策じゃないかと思う。

他にも色々「やり方を変える」アイディア、試してみたものや試してみたいものの話もあるのだが長くなってしまったので次回へ。