写真を通じて身につけたのは「自分はどうしたいか?」を問う力
初めて一眼レフカメラを買ったのが、たしか25、6歳のとき。趣味で撮っていた時代を経て、今では仕事として写真を撮らせてもらっている。一般的な40代女性としてはカメラや写真というものに長い時間触れてきた人間だと思う。
そんな私が、写真(カメラ)を通じて得たものは何か?と問われたら、それは「自分はどうしたいか?」と問う力なんじゃないかと思ったので、今日はそのことについて書いてみようと思う。
「写真を撮る」とは
「写真を撮る」という行為を分解すると
何を撮るか
どうやって撮るか
に分けられる。
何を撮るか
「何を」は写真の被写体に当たる部分で、簡単に言えば、何にピントを当てて撮るかということだ。
もう一段深めると、その被写体の「どんな部分」を伝えたいのか(=テーマ、目的)によって撮り方が変わってくる。
例えば、「子供」を撮りたいとする。
<何(被写体)>
子供
<どんな部分(テーマ・目的)>
A.よちよち歩きを始めた子供が何度も尻餅をついても健気に立ち上がってまた歩く。そのまっすぐさと歩くことへの純粋な喜びを伝えたい。
B.子供の透けるような細いふわふわの髪の毛の美しさを伝えたい。
こんなふうに、まずは何のどんな部分を伝えたいのかという目的(テーマ)を自分の中ではっきり持つ必要がある。
どうやって撮るか
目的が決まると、次に考えるのがどうやって撮るかに進む。この段階ではあらゆる状況判断と取捨選択が迫られる。
機材は何を使うか
設定値をどうするか
どの距離感で撮るか?
光の条件は?
場所(ロケーション)の条件は?
余計なものが写り込んでいないか?/必要なものは写ってるか?
被写体の様子は?
機材の条件、環境の条件、、、と無数に条件がある中で、何を採用して何を捨てるのかを瞬時に判断してシャッターを切る。
その判断基準となるのは、先ほど決めた「目的(テーマ)」に他ならない。逆にいうと、目的(テーマ)が定まっていない段階では、どうやって撮っていいかわからない、という状況に陥ってしまう。
写真の正解
私が思う「良い写真」とは「伝えたいことがある写真」だ。
何も心が動かないのにただ撮っただけの写真は、機械が撮ったただの画像と変わらない。もちろん、撮影者が意図して撮ったものと違う形で伝わることもあるけれど、それはそれで良い。解釈は自由だから。
私なりの写真の正解に近づくためにいつも自問自答している。
この写真で何が伝えたかったんだっけ?
それは達成できたの?
つまりそれは、「自分はどうしたかったのか?」を問うことに他ならない。
暮らしを変えた問う力
人生も同じだ。
仕事も暮らしも、選択肢は無数にある中で、自分の正解を決められるのは自分だけ。自分はどうしたいか?と問いてあげられるのは自分しかいない。
写真を通じて自然と身につけた「自分はどうしたい?」と問う力は、暮らしという部分においても知らず知らずのうちに使われていたのかもしれない。
そうでなければ、30年以上慣れ親しんだ東京を離れて、誰も知り合いのいない愛媛に移住しようということにはならなかったと思う。
妄想写真教室
もし私が写真教室をやるならば、写真を通じて「自分はどうしたいか?」を問い続けるような教室をやってみたい。
単なるカメラの操作方法を教える教室ではなく、カメラはあくまで自分がしたい表現をするための手段として、「あなたは何を表現したかったの?」と問いて問いて問いまくる教室。
マニアックな人しか来なさそうだけど。笑
私は、おかげさまである程度の技術や経験は積み重ねてきたけれど、自分がしたい表現をいつも100%できているかと言われると、まだまだ全然そんなことはなくて。
だからこそこれからも磨き続けていきたい。これは終わりなき旅ですね。自分のための妄想写真教室。
今日も読んでくださりありがとうございました。
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