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「天気の子」感想—三つの暴力装置だけが子供たちを守った

初めて映画を見てボロボロと泣いた。

見終わった後にうっすら目に涙がにじむ、ではない。視界がにじみ、大粒の涙が太ももにこぼれるほど泣いたのだ。

感情の乱気流の中で、「どうかこの思いを裏切らないでくれ」とだけ思いながら画面を必死で見つめた。そしてそれは、本当に幸運なことに、裏切られずに終わり、初めてレンタルで借りた映画のエンドロールまでしっかり見た。

賛否ある最後なのは知っている。しかしその否のいずれもが、僕の中に入ってこなかった。どうしてここまで美しく、悲しく、勇敢な話が生まれ得たのか、それを今まで見ていなかったのかという気持ちだ。

スタンスとして、僕はこの映画を「全肯定」という態度で語る。また、ネタバレも入る。苦手だなと思ったらブラウザバックしてくれて構わない。

※以下ネタバレアリ

「誰も知らない」帆高と陽菜、凪

まず、僕がこの映画を見終わって思い出したのは、是枝監督の「誰も知らない」だ。育児放棄され、子供を放置して愛人のところに行ってしまった母親の代わりに、責任感の強い長男の少年が弟妹を育てるという話だ。

当然母親の行為は許される行為ではないし、ろくに資金援助もされなくなる彼らの状況はどんどん悪化していく。公的な支援を受けるべきだ。しかし、子供たちは「児童相談所に行ったらきょうだいは引き離されてしまう」と考えて、できない。コンビニの廃棄をあさったりする日々だが、大人たちは誰も助けてくれなかった。一人だけ助けようとしてくれた人は自分と同じくらいの少女で、お金のために売春をしようとしたことを知った主人公は無力感に苦しみ続ける。通底して描かれるのは子供の無力さだ。

陽菜と凪の関係はこの状況にかなり似ている。また、「天気の子」のここが上手いなと感じたところなのだが、背景を説明しなくても想像できるようにしてあると感じた。凪が児相の介入を嫌がることにも、帆高の実家への鬱屈たる思いも、顔に貼られたばんそうこうなど散りばめられているものからなんとなく背景が想像できるようになっている。

助けを拒んでいるわけではない。大人たちは誰も、彼らを助けようとしても、救うことまではできないのだ。大人の常識や責務の範囲で動いている限り。

一つ目の暴力:帆高を守った拳銃

東京に身一つで現れた16歳の彼の手元に奇跡のように現れたのは、拳銃というマジックアイテムだった。それは一度は放棄されるものの、彼を守り続ける。「犯罪」「殺人」「暴力」「逮捕」そういった負の単語を連想させる、まっとうな社会から断絶させる「呪われた装備」。それを帆高が装備することには大きな意味がある――なぜなら、彼が頑張って生きていたところで、大人はだれも彼を助けないからだ。

もちろん須賀さんというキャラクターはいる。しかし彼も、自分の都合に差し障る事態になれば帆高を切り捨てた。須賀さんは社会の一員だからだ。

つまり、帆高が誰にも助けてもらえないのは、「家出少年(=大人の管理下にない子供)」という、「社会に属していないもの」だからだ。もちろん彼を捕らえようとする警察官だって、彼を抹殺してしまおうとしているわけではなく、彼らなりに助けようとしているのだろうが、その「助ける」は「本人の意向を無視して社会に拘束しなおす」ことなので、帆高にとってそれは救いになっていない。

帆高が自分を守り、意志を貫くには、拳銃が必要だったのだ。お尋ね者になり警察に追われるという呪いと引き換えに、彼は自分の心を救ってくれた少女を暴漢から守る。

ここで少し、怖くなった話をする。

「なにも銃を出さなくても帆高は助かったんじゃないか、だって東京なんだし人もいるだろ?陽菜が大声を出せば周りの人が駆けつけるのでは?」

こういう指摘はたぶんあると思う。が、僕はこう聞き返す、「そういう事件が目の前で起こったとして、子供を馬乗りになって殴打してるチンピラに割って入る度胸、ある?」

たぶん、そう簡単に答えは出ない。このチンピラの嫌な奴具合が本当に嫌な奴で、彼は自分が被害者だと思っている。商売の邪魔をされた被害者だと。だから帆高に一切の手加減のない暴力を浴びせる。

隠れて警察を呼ぶ?警察が来る前に帆高が不可逆の傷を負っててもおかしくない状況だと思うぞあれ。それにこういう暴力事件で、周りの人間は止めもせずカメラを向けている、という映像が頻繁にニュースで流れているのも知っている。人は警察を呼ばずカメラで撮るだけなのだ。

そして、実際問題、帆高が彼に組み敷かれて暴力を振るわれている間、だれの助けも来なかったのである。

結局のところ、帆高を救うことができたのは、あの時ゴミ箱で偶然出会った拳銃だけだったのだ。

二つ目の暴力:金

雨も相まって、この作品の東京は本当に苦しく孤独な場所に描かれている。ネットカフェで身体を縮めて眠る帆高の姿が象徴的だ。(それでも帆高が田舎より息苦しくないというのが泣けるのだが)

陽菜には家があるが、お金がない。バイトをしながら弟を養っている。本当は大人がそこにいなきゃいけないのだが、母は病死し、父は描かれない。

この苦しみを知った後で、24時間営業のバーガー屋でハンバーガーをおごった陽菜のやさしさを知ると、本当に驚くべきものがある。自分がこんなに困窮しているのに他者に自分の何かを差し出せる子なのだ、この陽菜という子は。ささやかなようでひどく深く、悲しい思いやりがそこにはある。

だが陽菜はその後、このやさしさのせいなのか、バーガー店を首になってしまう。そこで風俗店に勤務しようか逡巡する。

しかし帆高に助けられ、彼に提案され、自分の力を生かしてお金を得るという道を得る。

ここからの快進撃はとてもうれしく、きらきらしたものだった。映像内の太陽の輝きも相まって、見ている者を本当に幸せにさせた。

しかしこれによって彼女が受ける報いがあるのだが、それについては後述する。むしろこの項で書きたかったのは、彼らが得ている「金」という力についてである。

貧困や狭苦しさは、金によって解決される。ネカフェの一室で身体を縮めていた帆高が、それと知らず入ったラブホテルの広々とした部屋でのびのびと過ごしているのが象徴的である。

それを得るために身を削らなければいけなかったことを、恐らく陽菜ははじめから知っていた。だからこれを「金の暴力」と書く。

三つ目の暴力:天気を操る力

陽菜に与えられた力は膨大なもので、天候を自在に操作するものだった。しかし使えば使うほど体は透過していき、やがて体を神に返さなければならなくなるという。

帆高はそれと知らずに陽菜に力を使わせていた。三人で笑顔になるために。だから本気でショックを受け、罪悪感を抱く。

しかし陽菜はどうだろうか。自分がこの力に見定められた時、いずれこの世のものでなくなると知っていたのではないか。だからよどみなく「凪を頼んだよ」と言えたのではないか。

ここの、ホテルでの一室のシーン、ここは本当に神がかっていたと思う。淡々と、自分の運命を受け入れるように、自分は消えるが弟は頼んだと願う彼女の決意と覚悟。「どこ見てるの」と少し茶化すように問いかけたとき、穂高は「陽菜さんを見てる」と答える。美しくてたまらなかった。

ここから次々と、色んな情報が提示されていく。彼女がどれだけの思いを抱えてこれまで生きてきたのか。そして天上界に連れていかれた彼女が、覚悟していたはずの彼女がぐしゃぐしゃにうめき苦しむとき、そこで作り手は観客に「絶対に彼女を救わなければいけない」という感情を抱かせた。これだけで、こういうものを作るにあたって、100点満点だ。

帆高の闘い、須賀の闘い

このあとの帆高の戦いの中で、かかわる人間の図式は象徴的だったと思う。

この映画で描かれているものは「こどもとおとなの対立」だと思う。就活生の夏美は大人と子供の中間だ。だから途中まで手を貸してくれる。

須賀さんは、大人だ。ただ、「救われない子供のまま大人になってしまった大人」だ。妻を失い、娘を取り戻したい。取り戻すには今ここで帆高に手を貸すわけにはいかない。なんとかなだめすかせて、問題をなかったことにしたい。

実際彼の言うことは、多くの人にとってはもっともなことなのだ。「ここで止まらないと人生を棒に振るぞ」という帆高への言葉も、「あんたらだってひどいじゃないか、子供相手に!」という警察への言葉も、どれも真っ当だ。普通だ。そのまま話し合いになって、時間をかけて次善策を練ろうということになってもおかしくなかった。

しかし、帆高はそれを拒んだ。今更大人たちに融和することを是としなかった。絶対に、今すぐあの子を助ける、そう誓って走り出し、そして捕まる。

そのもがきを見て、きっと須賀は思い出したのだと思う。自分がかつて救われなかったことを。

子供時代、自分は絶対間違ってないと信じているのに、周りの都合や相手の言葉、立場の違いで何もさせてもらえず、家で一人で無力をかみしめたことなら、きっと大人になった人なら思い出すことがあると思う。それでも、仕方ないことだったといって忘れて生きていくしかない、これが大人になることだと。

そうだ、こいつのやっていることはバカげてると知っている。

だけど、バカげてるよなと言って、やらないまま年を取ったことを、きっと須賀は後悔していた。

だから帆高に走ってほしかったのだ。

それが彼の涙の理由だったんだと思う。

壊れた世界の責任などだれにも取れないが、大人たちにはそれを直す力が与えられている

帆高は陽菜のもとに行き、彼女を天上界から連れ戻す。この辺についてはうまく語れない。泣いてたから。ボロボロ泣いてたのはこの辺である。

ただひたすらにうれしかった。陽菜さんがまた笑っていることがたまらなくうれしかった。ここまで強く感情移入するとは思わなかった。帆高、本当に頑張ったなという気持ちになった。こういう恥ずかしい言葉しか出てこないのだ。

おそらく賛否あるのはここからの展開だろう。東京が雨で水没してしまったという点だ。

しかし、僕はこの展開を受け入れていた。受け入れるというか、そりゃそうだろうとしか思ってなかったから特に違和感も何もなく、話せることがあまりない。

「いやそれはどうなんだー」という考え方の人がいる、という仮定に立って話す。そもそもこの作品すべてにおいて描かれていたのは、「世界が救われるだの滅ぶだのを、たかが子供一人に背負わせるのは無理がある」ということだった。「無理がある」のを知りながら、「それで丸く収まるなら犠牲になってもらおうか」と、恐らく本心ではないだろうが言ってしまったのは須賀さんたち大人である。しかし帆高はその大人たちに勝った。だから少なくても須賀さんは、この雨に文句を言えない。

大体この世界の東京の人は、この雨が陽菜が現世に戻ってきたせいで起きてるとは知らない。知ってるのは須賀さんと夏美さんだけだ。だから「これでよかったのか?」と仮に視聴者が感じたなら、こういう問いかけになる。

A「異常気象は収まったが、小さい弟とボーイフレンドがいた女の子が人知れず苦しみながら消滅させられた世界」

B「異常気象は悪化したが、その女の子が幸せに暮らしている世界」

さて、どっちがいいかという話である。

それに作中でも、依頼人のおばあちゃんや須賀さんが言っている通り、異常気象なんていくらでも起こっているし世界の形は100年200年という単位で見たら大きく変動を繰り返しているものなのだ。それが今回、たまたま人間の理想的な形から外れた周期に入った、それだけのことということもできる。

もちろん水害は大変なことだ。人が死んだり大切な文化財が失われることもあるだろう。だがあの映画の最後に描かれていた東京は、どうにかその変わりゆく世界と調和しようとしているように見えた。それだけで僕にとっては納得いくハッピーエンドだったのだ。

子供からは、雨の日にホテルに泊まる権利さえ奪われている。そんな無い無い尽くしに陥れておいて、「お前が死ねば世界が平和になるんだからさっさと死ぬのが義務だ」は通るまい。なんでもできる権利を与えられているのは大人なんだから、大人がこのあとのことはなんとかせよ。君たちにはそれができるはずだろう?

子供たちへの愛情と一緒に、大人たちへの叱咤激励も感じた。

Cルートが存在しないというリアルさ

こういう映画なら、さっき述べたルートのほかに、Cルートもあるべきじゃないかと感じる人もいると思う。実際いたんだろう。つまり、

C「陽菜さんは助かり、異常気象は収まる。ハッピーエンド」

僕自身の感覚でいれば、これは嘘だ。絶対に嘘だと感じる。これがもののけ姫なら、シシ神の犠牲によってすべてが解決したという終わりでもよかった。だが、いまここ、この「天気の子」が描いているのは、明らかに僕らが今生きる現代の日本なのだ。

何度も何度も、取り返しのつかないような問題が起こり、人が死に、悲劇が起こる。それを未然に防ぐこともできず、ニュースは今日も訃報を伝える。異常気象、ウイルス、不景気、世界が刻一刻と悪くなっている報道を、今日も僕らはTLで見て、RTしたりいいねしたり無視したりする。

そういう世界と地続きとして描かれていた世界で、「じつはこっちにはこういう万能薬があったからなんとかなりました」なんて言われて、納得できるだろうか?

これがもっと違う絵柄なら違ったかもしれない。だが、新海誠映画の絵作りは、写真よりも現実を映し出しているといえるほどの美術だ。だからこそ、みんなが丸く収まりましたなんていうCルートは作ってはいけない、それをしたら信じてもらえないと監督は判断したのではないか。

…ということを考えていたら実際そういうインタビューを見つけた。自分の見識に若干の誇りを抱いた次第である。

https://funq.jp/flick/article/566134/

「おそらく僕たちはこれから、夏が来るたびに大規模水害に脅え、冬が来るたびに感染症に脅えることになると思います。10年前とははっきりと違う状況になっている。そういう状況の中で『世界が救われて良かったね!』という物語は、若い世代にとっては絵空事に過ぎるんじゃないかと思うんです」と新海監督。たしかに『天気の子』は、若い人の方が物語を素直に受け止め、評価が高かった。『なぜ世界は救われないのか!』と思った私の感性は古いのだろう。若者の声に耳をそばだてる新海監督は、帆高に「天気なんて狂ったままでいいんだ!」と叫ばせることで、これから『壊れたままの世界』で生きていかなければならない若者にエールを送っている。

僕はこのインタビューで、新海誠監督が本当に好きになった。クリエイターができるエールの仕方は、完全なるハッピーエンドに限らないのだ。そしてそういう真摯な気持ちで作られたこの映画が、興行成績140億という好成績を収めたことが本当にうれしい。

終わりに

とにかく、僕にとって素晴らしい映画だった。ゲオで借りたブルーレイで見たので、今日池袋のリバイバル上映を見に行く。陽菜を、帆高を、凪を、須賀さんを、夏美を、ここまで好きだと思わせてくれてありがとう。

願わくば僕も、困っているんだろうなという人がいたときに、ハンバーガーをこそっと譲ってあげられる人になりたいと思う。

新海監督、最高の作品をありがとうございました。

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