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ポリティカルコレクトネスと創作について―誰もが誰かをバカにできる世の中の価値

①ネット上で誰かを名指しで批判することについて

誰だかわからん奴に、ネット上で名指しでバカにされたことはあるだろうか?

僕はある。いちいちこっちの発言をRTしたあと毎回揚げ足取りや皮肉のようなことを言うからブロックしたら、なんかヒートアップしたのかRTがスクショに切り替わっただけでやってることはむしろ悪くなった。リプライのやり取りをしたらさらに悪化した。本当にクソ。

でも僕は、怒りで或る1つの真理に気づけずにいた。

リプライや引用RTなど、直接殴りかかってくる形や、事実無根の悪評を垂れ流されたとかでない限り、その人が僕を悪く言うのは自由なのだ。

「批判は正当なものだ…僕が悪かった…」と首を垂れるとかではない。だってあの人「絵が下手」「障害者ムーブ」とか、えっそれ言う~?批判とかじゃなくただの悪口じゃんみたいなことも平気で言うから。

ただ、そもそも二次創作をやってること、数年前に青臭い感情むき出しで駄文を書きなぐってそれを誰にでも見れる状態で公開したことなどなど、そりゃ僕からしたらそれをつつかれるのは非常に不愉快ではあるが、なんかイヤミの一つでも言いたくなるのはわかる。法律に反した行いでないかぎり、「てめえやめろ」と言って介入しに行くのはこっちが殴り掛かりに行っていることになる。それはたぶん道理を外れた行為だ。

繰り返すが、「僕はボロクソのメタメタに言われて、粘着され続けても仕方のないクズです…殺してください…」とは思ってない。ただ、その人が思ったことを好きなように書き込むのがツイッターなのだから、それを制限する権利は僕にはない、僕が不快になるという以外で何か凄い経済的だったり社会的だったり大きな不利益を被るとかでない限り。というだけの話。(それでいうとそういう事を言ってきた人を僕がブロックするのも自由なのだが、そういうことを言わないでくださいとリプしにいったりするとたぶんややこしいことになるしするべきでない)

なんでこんなことを突然言い始めたかというと、創作や表現の自由というものを考えさせられる出来事があったからだ。

②創作とポリコレ、時代に合った表現とは

物書き仲間で、ある属性に属する人を主人公にしたコメディを描こうとした友人がいた。その作品は明らかに優れたものだったが、出版社はNGを出した。「その属性の人が怒るかもしれないから」だ。

ポリティカル・コレクトネスという言葉もある。無遠慮に何かを面白おかしく描いて、あざけって、バカにするのはもうやめましょうということ、創作の中に差別をもちこんではいけないという主張、だと僕は解釈している。

時代にそぐう表現かどうかという視点は常に大切だ。例えば僕は今中国の人が登場するオリジナルの短編を描いているが、登場人物に「いかにも記号的なもの」を着せるのを避けた。

馬阿妹(アメ)

この子だ。この子は中国人で、日本の池袋に住んでいるという設定だ。

僕が避けたのは、「〇〇ヨ!」とか「〇〇デスネ」とか、語尾がカタカナになる表現や、目を糸目にするとかそういうのだ。

日本に住んでいる外国の方、特に中国の方は、日本語が流暢な人が多い。それにこの子は日本の学校に通っている設定だから、日本に長いこと住んでいるだろう、となるとカタコトだとやはりおかしい。

それに、僕は小学生の時アメリカにいたことがあるのだが、下手な英語でも向こうは頑張って聞いてくれるし、会話をしよう、仲良くなりたいという気持ちで接してくれた。それがうれしかった。

でももしその人たちが僕を影で「あいつ英語下手糞w」と言ってたら多分凹むと思う。そして、僕の日本語の漫画を読む中国の方がもし居たとして、その僕の漫画の中で出てくる中国人がカタカナ交じりの変な日本語をしゃべっていたら、「やっぱり日本人って、日本語が下手な外国人を見てクスクス笑ってたりするのかな…」という気持ちにならないだろうか?

あと糸目にするとか、そういう外見的特徴を安易に入れるのも良くない気がした。「日本人の特徴って背が低いことですよね」と外国の人から言われたら僕だっていやだからだ。

という中で僕はこの子を、「日本語は普通にしゃべれる」「人種的特徴を強調せず、その国の属性を入れたキャラクターデザインにする」ということを守って描こうとした。結果、カチューシャや刺繍など、可愛いな、綺麗だなと思えるものを入れた。お札を持っているのはこの漫画がオカルトを扱うものだからで、中国人=オカルト使いみたいな、そんなノックスの十戒みたいな話をこの2019年にする気はなかった。むしろ逆に、IT技術が日本以上に発達している側面を考えて、ゲーム好きや機械に強いといった要素も入れるつもり。

結果こんな感じだ。

画像2

要は、「こうしとけば中国人って記号的にわかるっしょ?」という思考停止をやめて、愛されるキャラクターと面白い物語を描くために要素と向き合ってものを作りましたということだ。

ここまで書くと、僕がポリコレ賛成派、そこまで考えて物を作ってるんですねと言われそうだが、実際はそうではない。もし感心した人がいたらごめんなさい。そして最初の、ネット上での批判がうんぬんの話どっか行ってるでしょう?忘れてないです。今から拾います。

③悪口を言う事は「内心の自由」の範疇

基本的に誰しも、気に入らない対象というのはいる。それを悪く思うのは内心の自由である。

そしてネット上にその気持ちを吐露することは、僕は内心の自由の一部だと考えるようになった。(前はそうじゃなかった、思っても良いけど人に言うなと思っていた)

社会の良識とか常識は時代とともにアップデートされていくものだ。100年前かそこらは人権とか全然無視した刑罰が普及してたし、50年前だったら環境破壊とか全く考慮してない形でゴミを廃棄してただろう、パワハラやセクハラといったことをみんなが気を付けるようになったのもここ10年の話だと思う。

世の中は良くなっている。しかし、100年前、50年前、10年前…その頃の人間が犯していた蛮行の動機となる感情が、人間から排除されたわけではないのだ。

野蛮さ、残酷さ、俗悪さ、下劣さ。そういう「邪悪」は人間の一部だ。必ず存在するものだ。そういうものはありますよ、でも罪人を残酷に殺したりゴミをひどい方法でほったらかして環境をぶっ壊したりしないようにしましょうね、それやったらいろんな人が困るしまた別な問題が起きますからね…と、その邪悪によって人がする「行動」を、色んな制度作りやテクノロジー、教育で制御する方向で社会は進歩してきて、それによって世の中は良くなったんだと思う。傷ついたり、泣いたりする人が減ったんだと思う。

しかし、その制限が、心を吐露することにまで向かうことは危険だ。そこをせき止めてしまったら、人間の中にある邪悪は爆発する。

そして僕は、その制限が「不均等な形で」敷かれることによる弊害を危惧する。

④特権化は憎悪を倍増させる

仮にこれから先の世の中で、「人のことを悪く言ってはいけない」というところまで制限が発生したとする。(というかこれは一部で半ばなりつつある。ある属性に対して不用意に言及することが猛烈な批判を生み、結果その発言や表現を撤回させられたり、あるいは社会的な地位を奪われたりする人がいる)

しかしこれは、これまでの傾向から明らかなことだから断言するが、この制限は決して「ありとあらゆる人間、全人類に対して、悪口を言ってはいけない」にはならない。

「何か特定の属性に対して悪口を言ってはいけない」とは、「それ以外の別の属性の何かに対する悪口なら別に言っても良い」を暗に含むのだ。そして、その特定の属性を特権化させてしまう事につながる。

・・・ここまで書いた時点で、僕はかなり危うい場所に立っている。言葉選びを一つ間違えれば、今すぐにでも僕は破滅するかもしれないというところにある。わかっている。

今言える範囲で言えば、「批判を封殺しようとするとその批判者の悪感情は膨れ上がる」ということは確かだ。たとえば僕が言われた批判。

「有産はそんなに無産より偉いのか」

「有産」とは俗語で、サブカルチャーを好む人の輪の中で、絵や小説など何かを作って発表している人のこと。「無産」はとくにそれをしていない人のこと。だと思う。

僕はそれを言われるまで有産無産という概念を知らなかった。そういう意識がなかった。

で、僕自身とその人が直接そういうやりとりをしたわけではないが、多分その人は僕かほかのだれかに対して悪口を言ったことで、「〇〇さんがお前の悪口で筆を折ったらどうしてくれるんだ」というようなやりとりをしていて、だから「そんなに偉いのか」になったのだと思う。

ちょっと具体的なことを忘れたので仮にその〇〇さんが僕だったとしての仮定で話す。

もし、その批判者から見て、僕が明らかにアホみたいなことをしていて、そのアホなことに対して「アホだな」と発言したとして。そのとき僕のファンの方に「nozubeyaさんは絵を描いているんだからお前みたいなやつが悪口を言ったら筆を折るかもしれない、だから悪口を言うな」と言われたら、批判者はどう思うだろうか?

「関係ねえよ、あほなことしてるやつがあほだっつっただけだろがボケ」と思うのが自然だ。そして今冷静に見直して、もしそういう状況だったら、そりゃその批判者は僕へのヘイトを強めるだろう。

そしてこれを文章にしていて思った、おれこういうことしたことある。ごめん。驕り高ぶっていました…

④誰もが誰かをバカにしていい世の中

このように、あるものへの批判や皮肉、あるいはただの悪口でも、それを封殺することは確実に悪感情を生む。

障害者をバカにしたら大変な制裁を受けるが、空気の読めないダメな夫をバカにしても特に何も起こらずむしろ痛快だという扱いを受ける、みたいな不均衡さはすでに生まれつつある。

じゃあダメ夫を叩くのも禁止しましょう!というのは、言うまでもなく更に鬱憤や邪悪が溜まってしまうのでNG。そう文句も言いたくなるくらいのストレスや不満があるのだ、ということくらいはわかるし、それを吐き出させないようになったらその家庭さらに悪くなるでしょうと思う。

じゃあ障害者だろうが何だろうが馬鹿にしてもいいでーす!というのは、まあ…僕個人は構わないが※、「俺が構わないんだからお前も構うな!」とほかの障害者の人に強いるのは絶対まちがってるので、その方向も僕は肯定できない。※僕は双極性障害で、精神障害者です。

「お前足ねえじゃねえかっつったら、そういうお前は髪がねえじゃねえかって、そう言い合える世の中だといいよな」

なんかで聞いた文章だ。誰が言ったのかはよく知らないし、本当にそんなことを言った人がいたのかも知らない。でも僕は、この言い方を気に入っている。

⑤無理やり話をまとめる

・ネット上で誰かを名指しで悪く言うことは、そこまでだったら「内心の自由」。事実無根のことを言ってデマを流したり、意図的にその悪口を持ってその人の社会的地位を奪おうとしたりすると、それは名誉棄損とか係争の域に入るので肯定できないけど、「あいつなんかアホなことしてんな、ムカツクな」は言う分には自由。(まあ言われた側はむかつくけど)

・ポリティカルコレクトネスというものが無意味とは思わない。僕が中国人キャラクターを描くときに試行錯誤したのもポリコレの一環だと思うし、無用に何かの属性をけなしたり貶めることなく、時代に合ったものを創ろうという心は消して無価値じゃない。そして、「この表現は無遠慮で、〇〇を傷つける」と主張することも一つの戦いだろう。でも、そこで批判者側が一方的に勝ってしまい、その表現をした人が口を封じられてしまうと、それはその人の内心の自由が侵されたことになる。それに、その批判者には見えていなかった側面では、その表現は単に思慮不足から来るものではなく大切な一ピースだったということもあるのだ。何かを一方的に禁じるということは猛烈な反発、憎悪を生む。

・時代が進むにつれて刑法や社会制度も変わり、人間の根底にある「邪悪」というものは制御されるようになってきた。しかし、このままその邪悪な心を、「誰かに話すこと、言葉にすること」まで禁じてしまう方に社会が進んでしまったら、多分ものすごく歪で、良くないことが起こると思う。

・〇〇という属性は批判してはいけないが、▽▽という属性は批判しても良い、という構図が出来上がってしまうと、〇〇に憎悪を抱く人が必ず現れるし、▽▽の人達は不幸になる。これなんとかならないんだろうか?(これについては本当にわからない)

…こんな感じだろうか。

僕個人としてはみんなおのおの、殴り合えー!!!という方が、一方は殴っていいけど一方は殴り返せない世の中より健全と思うんだけども。

そして先の②で書いた通り、一方を殴らなくていいようにこっちで工夫していけたら良いなとも思う。

つまるところ、僕にとって一番の「悪」は、「権利の不平等化」。一方が片一方よりも持っている権利が少ないということは、あってはならないことだと思っていて、これから社会が進んでく中で結果的にそういうことが起こらないかちょっと心配。

衝突や不和で人が傷つくことを減らしたいという思いはわかるしそう思うが、人間の邪悪というものは基本的に変わらないと思うので、臭いものに蓋…みたいな世の中になったらさっき言ったみたいなことになるよなあ、といったところです。


…すごく長くなりましたが、僕が思ってることはこんな感じです。こうして言葉にできてよかった。

という感じでよろしくお願いします。

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