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ボカロにエヴァ、ヘブバンにセカイ系 北出栞『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』評

 いま”セカイ”を語る筆者の姿勢に感服した。久しぶりに、良いものを読んだと思った。

 23日発売の北出栞氏の書籍『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』(太田出版)に対する、ぼくの感想だ。ゼロ年代批評好きとして読んでおかねばと思い、発売日に書店に駆けた。

 内容を簡単に要約するなら、セカイ系をキーワードとした現代カルチャー評論だろうか。

 否。現代カルチャーから失われた(と思われた)セカイ系を見いだす旅路と言った方が、読後感に近い。

 1冊236頁を通じてセカイ系を語れる論者は、今ではなかなかお目にかかれない。たぐいまれな熱を持った北出氏の思索の足跡に見えた。


セカイ系はテクノロジーに宿る

 内容を紹介したい。全8章構成で、第1章はセカイ系に対する北出氏の考えを示す。2~4章では代表的なセカイ系の作り手とされてきた庵野秀明などを、5~7章はTikTokなどを題材に現代文化を論じる。8章は岩井俊二の作品をもとに総括する。

 前提として抑えておくべきなのは、北出氏のセカイ系に対する考え方だ。セカイ系の定義は、前島賢の書籍『セカイ系とは何か』によれば、アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」に続く、エヴァっぽい作品群を指す。

 別の言い方をすれば、主人公とヒロインの間の狭い“セカイ”が、その中間項となる社会――国家制度や軍事衝突によるプロセス――を挟むこと無く、世界の終わりと直結しているように感じる作品のことを言う。

 ・・・・・・まどろっこしい言い方になってしまったが、ご容赦いただきたい。

 なぜなら、セカイ系とは、それほどまでに曖昧なものである上に、既に過去の遺物という認識が大半だからだ。

 事実として、いわゆるセカイ系として作品が論じられることは、現在ではゼロに等しい。ゼロ年代批評では多く見かける一方で、論者の活動転換などにより、10年代にはほとんど姿を消していった。

 だが、北出氏はこれを、セカイ系の作品が無くなったとは捉えない。作品にセカイ系を見いだす人は少なくなっても、セカイ系はたしかに現代の作品にも存在しているという視座に立つ。

 この視座に北出氏を立たせるのは、デジタルテクノロジーへの注目という発想である。

「筆者は〈セカイ系〉の「っぽさ」を、当時のデジタルテクノロジーの中に宿っていた独特の感覚を指すものだと定義したいのである」

 この“テクノロジー”には作品内部を指して、「〈セカイ系〉を「当時のデジタルテクノロジーに媒介された二者関係を描いた作品」として解釈する」視点だけではなく、視聴や制作の環境、作品を取り巻く受け手や作り手のテクノロジーも含む。

 “当時のテクノロジー”と書くと既に失われていそうに感じるが、北出氏は現代にも存在している。いや、当時と全く同じものは無いが、同じ感覚(北出氏はこれを「半透明」な感覚と呼ぶ)は各作品の中に内在していると主張する。

ボカロとセカイ系的主体

 『「世界の終わり」を~』では、2章で庵野秀明、3章で新海誠、4章で麻枝准と、かつてセカイ系作品の代表的作り手として語られた3人の現代の作品について、その視点から見つめ直す。続く5章ではボカロ、6章ではTikTok、7章ではアーティスト・布施琳太郎などから、セカイ系を見いだす。

 とくに注目したいのは、5章のボカロをめぐる検討だ。ぼくの専門領域に近いのが理由だが、そもそも公式としてセカイ系との親和性が高いコンテンツでもあるからでもある。

 ボカロ界隈では、セカイ系と同様、カタカナ表記のセカイが頻繁に使われる。起源は定かでは無いが、それが違和感なく受け入れられているのは、セカイ系との共通点が感じ取られてきたからだろう。

 ボカロは特殊なコンテンツだ。ソフトウェアでもあり、キャラクターでもある。にもかかわらず、公式設定はほとんどない。その結果として、初音ミクなどはユーザーたちの想像力の集合体として、ネギが好きなど後付けで設定が作られていった。

 それはあたかも“創世神話”として、当時を経験していないユーザーにまで語り継がれている。

 ――これは言い換えれば、ユーザー個々のキャラクター――主に初音ミク――との対話、すなわち2人の“セカイ”の集合とも捉えられる。

 セカイ同士が交わり、新たな作品世界を生み出す。セカイが世界を変える体験が、セカイ系的想像力の記憶が、ユーザーたちの間に根付いているのである。

 販売元のクリプトンフューチャーメディアなどの公式作品を生み出す側も、その感覚には自覚的だ。

 よく特徴が現れているのが、配信中のスマートフォンゲーム「プロジェクトセカイカラフルステージ」だろう。

 ボカロ曲を楽しめるリズムゲームではあるのだが、ストーリーがなかなかに手厚いゲームで、比較的広い年代で人気を集めている。ぼくも配信当初からやっている。

 同作では、タイトルで既にセカイとカタカナで使ってしまうのはもちろん、ストーリー内容もあからさまな意識がある。作中には5つのユニットが登場するが、それぞれのユニットの特徴に合わせて初音ミクなどの姿が変わっているのだ。

 これは、ユニットごとに1人のミクが姿を変えているということではない。ユニットごとのセカイがあり、それぞれに違う初音ミクが存在するということを意味する。ただ、違うといっても、全く違うものではなく、イデアとしての初音ミクは存在している。そしてそれの集合体としての物語が、ゲームの世界を創っている。

 まるでボカロの創世神話――セカイ系的神話を再現するかのような作品、といってもいいだろう。

 北出氏はこの作品への言及などを通じて、ボカロとクリエイター、クリエイターになり得る存在との間に、「セカイ系的主体」を発見する。

 たとえば、ボカロをめぐる議論からも、北出氏はセカイ系的主体を見いだす。

 ボカロは人間の道具かキャラクターか、という二項対立がよく語られてきた。音楽ライター・柴那典の「メルトからボカロ曲のキャラクター性が消えていった」というあまりに雑な言説が、よく知られている。

 北出氏は、その二項対立を、ボカロから「セカイ系的主体」を示すことで解消する。

 「セカイ系的主体」の定義を、そのまま引用する。

「「セカイ系的主体」を改めて定義すると、「エディタ」が「ライブラリ」に登録されたバラバラな音声データをひとつの「歌」という単位に統合する際に、ソフトウェアとともに「作る」人の中に立ち上がってくるイメージのことだと言えるだろう」

「(セカイ系的主体としてのボカロは)「私情を挟まず、指定された音階通りに歌う」主体でも、単に作家の意志を実現する「道具」でもない」

 ボカロとクリエイターの間に生まれてくるイメージを、北出氏は以上のように言葉にする。「セカイ系的主体」を発見し、道具でも単なる主体でもないと喝破する。

 ・・・・・・正直言って、これだけではわからないと思う。

 正確な理解は『「世界の終わり」を~』を読んでもらうとして、ぼくとして一個補助線を引くなら、キャラクターでもあり、ソフトウェアでもある初音ミクとクリエイター、ボカロPとして向き合うイメージをしてほしい。

 道具ではなく水平な関係の2人の“セカイ”が、そこには見えてこないだろうか。ここに「セカイ系的主体」が浮かび上がってくる。

セカイ系は救いの思想か

 『「世界の終わり」を~』は、こうした調子で縦横無尽に様々な現代カルチャーから、セカイ系を見いだしていく。

 現代において、ここまでの範囲を語り尽くすのは、ただただ感服するしか無い。北出氏のウイングの広さに敬服する。

 こうした作品の欠点となりがちなのが、「なぜそれを語るのか」という問いに納得した答えを示せないことだろう。

 範囲を広げれば、各ジャンルの全てを網羅するのは難しい。だから、「なぜそれを語って、それを語らないのか。ただの個人の好みではないか」という批判に答えられる書き手は、きっと多くは無い。同じような手法を使っていた宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』にも、同様の疑問を抱かれる。

 ただ、それに比べれば、『「世界の終わり」を~』には納得感がある。というか、批判をする気があまりわいてこない。

 ひとえにそれは、北出氏の尋常では無い熱意を感じるからだろう。

 セカイ系を今の時代に語るのが、まずよくわからない。褒め言葉である。そんな論者のセレクトを批判できるかといえば、なかなか難しい。

 書籍の最終章で、北出氏がなぜセカイ系にこだわるのかが、少しだけ明かされていた。

「(セカイ系の定義は)「世界の終わり」と「大切な誰かとの関係」が、同じ重みをもって描かれる作品のあり方を指しているとも考えられる。ふとした瞬間に人生という「世界」を終わらせる選択肢を想像してしまいかねないそんな時代に、「それでも、誰かの大切な誰かの顔は思い浮かびませんか?」と、呼びかけてくるようなところが〈セカイ系〉にはある」

「何もかも終わりにしたいという、破滅を願う心。それ自体は否定せず、しかし同時に誰かを傷つけるような、根本的な破滅に至る手前で踏みとどまらせるような倫理。「人生、何をやってもうまくいかない」と感じる人が、「うまくいかない」まま倫理的に生きていくための思想が〈セカイ系〉だと思うのだ。少なくとも、筆者はそういうものとして日々、〈セカイ系〉について考えることで救われている」

 自らにとっての救いの思想が、セカイ系だという。この熱に勝てるやつは、きっといない。

 セカイ系の論考を見なくなって久しく、もう賞味期限切れなのかもしれない。でも、そんな中でも語り続けるこの熱っぽい姿勢こそが、この本の価値を担保してくれている。

 セカイ系という言葉が生まれてから、20年以上。その火は未だに、消えていないようだ。

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