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もしもこの世に地獄があるのなら、新宿と名付けたい

私が初めて新宿を訪れたのは、高校2年生の初夏。

高校1年のときに夏期講習だけ通っていた、横浜の美大予備校が閉鎖されることになったので、代わりの予備校を探していた。

高校のある横浜付近で探せばよかったのだが、また通い始めた途端につぶれたら困るなと思ったので、まだ親の許諾は得られていなかったが、大手予備校に通うことにしたのだ。

新宿の予備校は体験授業を受け付けていたので、資料をもらうために新宿を訪れた。

高校の授業終わり。
平日の夕方だからなのか、それとも常にいつもそうなのかはわからなかったが、とにかく人だらけで、立ち止まったら人にぶつかられそうだったので、予備校に1番近い出口を探した。

だが、一向に出口が見つからない。
改札を出るまで2時間、駅から出るまで2時間、駅から予備校まで45分かけてようやく辿り着いた頃には、戦意喪失。方向音痴にも程があるが、この予備校には絶対通えないと思った。

あれから約10年経った今。
私は、また新宿の街を彷徨い歩いている。
新宿でしか済ませられない用事がいくつか突発的に重なったため、泣く泣く訪れていた。

まだ4月なのに、ジリジリと照りつける光と熱、駅前で大音量で流されているラップの爆音と、視界を埋め尽くさんばかりのウジャウジャと無秩序に歩き回る人々に疲弊していた。誰か、今すぐでも私を殺して、楽にしてくれとさえ思った。どうしてこんなにも身体が拒絶反応を起こすのかわからないが、この街にいるだけでゾワゾワとする。

一つ目の用事は、新宿にある大型の画材屋で版画用のブラシを買うこと。
ネットでも全く売られていないわけではないか、選べるほど種類があるわけでもなく、また毛質を触って確かめてみないことには購入出来ないと思ったので訪れた。

たくさんの人をかき分けてここまでやってきたのに、店に入ってもたくさんの人。

心の中で悲鳴を上げながら、ようやく3階にある版画用のブラシを見つけたものの、レジには長蛇の列。

一時的なものかと思って、顔料売り場を見て回ってから戻ると、さっきよりもはるかに列が伸びていた。

何だか、外国の方々の割合が多い気がした。わざわざ日本に来て、どんな画材を買っていくのかとても気になって観察してみたが、1つのものがとても売れているという事でもなかった。


四つの用事を済ませて、帰りの電車に乗る頃には、私はもう干からびていた。

電車はとても空いていたので、適当な位置に座り、左手で目を覆いながら、今日の出来事を順々に思い返していた。

今更だけど、今日、私はちゃんと普通に出来ていただろうかと不安になった。

思ってないことが口から出てしまったし、逆に言いたいことは何も言えなかったからだ。いやいや、でも口から出たならそれが本心だったんじゃとか、緊張しすぎて会話が噛み合わなかった気がするなとか、悶々としながら家路に着いた。

実家に着いて、ダイニングのイスにいくつかの荷物を置き、その横の長イスに座った。

背もたれに身を預けて、目の上に腕を乗せて放心していたら、母が寄ってきて「熱中症になったんじゃない?」と言うので、「ん、そうかも…」とそのままの姿勢で答えた。

母がやれやれと言った感じでため息をついた後、私の荷物を退けようとカバンを持ち上げたとき、「なんだかいい匂いがする」と言った。

刹那、さっき手に入れた、柔らかく光が反射する水面を、遠くの部屋の窓辺から見下ろしているような瑞々しい香りのことを思い出した。


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