5/7 湯治と欲

何も書けないまま1日が終わってしまった。そういう日はたいてい雨で、しっとりした午前中を過ごしている。何をしているかというと、ほとんど何にもしていない。たくさん歌いすぎて疲れ果てていることもあるし、日に何度も湯に浸かりぼんやりとしている。好きな時にお湯を沸かして浸かれるというのは自由の特権だと思うのだが、これは再三書いていることなので少々短めに書く。まず土曜日の午前中に湯を沸かす。沸いたタイミングでお茶をいれて、それとともにお湯に向かう。読みたい本があれば尚よしで、眺めの良い窓が半開きになっていたらいうことがない。古い窓ならお風呂上がりによく拭いて、結露で窓枠が腐らないようにする。音楽をかけることができたらその日はもう外に出なくてもいいことにする。温かい湯の中で入れたばかりのお茶を飲むのはなんだか変なのかもしれないが、私はすき。茶の匂いが立つような季節の行事だ。祖母は湯に浸かるのがひどく短く、烏の行水よりも早いと自分で言う。私は烏まではいかないが、冬眠前のクマよりは念入りでもない。生活の一部としての入水は、人生を受け入れるための小さな小さなイニシエーション(通過儀礼)でもある。湯の中では足を伸ばしたり、前屈したり、縮上がって丸くなっても構わない。湯に浸かるのは自分ひとりなら、その中で体を洗ったりおしっこをしたってなんら問題がない(これは諸説あるので異論があることは認める)。問題は、深い眠りにつくことができるかどうかにかかっている。湯は私を地底に引っ張る力を持っている。湯に浸かる前と後では、自分の体にかかる重力が変わる、湯に入ると浮力で浮くその力が湯から出た後も引き続きはらたきかけている。地面の底から引っ張られる力は、湯の持つ浮く力には抗えていないという感覚を身をもって知る。

山に籠った二日目に温泉に行った。私はここに6年前も来ていて、そのときもきっと同じようなアイスクリームを食べた。違うのは、友人と私は同じ家には帰らないことだ。友人の子供は、その子の親戚の小さい子からアンパンマンジュースをひったくっており、将来が大変楽しみだった。そういう強い要望や欲を持った人がこれから大切な要素になってくる。そのほかにもその子は、人から借りる時は貸してもらえるまで「かして」を連呼し、貸してもらったら最後絶対に貸してあげようとはしない。その代わり、他の子が使っているのをみると一目散に「かして」連呼を再開する。グリードのような精神力が本当に素晴らしい。もちろん人に何かを譲ってあげたりすることは大切だが、自分が今何が欲しいかを理解することはもっと大事だ。
温泉で売っていた温泉の元を買うべきかどうか思案し、今回は買わないことにした。来年もきっと来られたらいいなと思い、そのときまでこの肌についた湯の感覚を忘れないといいなとも思った。湯には「厳選ですが循環しています」との注意書きがされていた。地底から湧き上げられそして温め直されているのだろうか。武蔵野うどんのような乾麺とさしみこんにゃくを買って帰宅。

帰ってきてからも山のことを思い出してはぼーっとしてしまい、仕事どころではなくなってしまった。疲れているわけではなく、頭がぼーっと恍惚としている状態といえる。加えて家のベランダからは植えていないのに栗の花の香りが充満している。この香りは私をとにかくぼーっとさせる。できればあと一ヶ月くらいはこのままぼーっとして、朝に物を書いてコーヒーを飲みに行き、市場で軽い買い物をして帰ってきてからお湯に浸かり、本を読んだりたまに人を招いて丁寧な食事を取ったりして穏便に暮らしたいという欲がでてきてしまう。これは果たして欲なのだろうか?ちょっと工夫さえしたら、なんなくこなせてしまいそうな欲だ。もっとアンパンマンのジュースを欲するような、根源的な欲求が必要だ。最後にそんな思いを抱いたのは一体いつだったろう?もう遠い昔すぎて思い出せないかもしれない。もう思い出せなくてもいいから、もう一度そういう欲求に駆られて駆け出してみたい。今の自分の欲求と向き合うことは、自分の生のエネルギーと向き合うことだ。

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