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中沢新一『今日のミトロジー』/ロラン・バルト『神話作用』/クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』

☆mediopos2983  2023.1.17

中沢新一はロラン・バルトの
「言語現象であることに焦点を合わせている」
『ミトロジー』にならいながら

「人間の心のなかの言語よりもさらに深い場所に
セットされている、未知の構造に焦点を合わせ」
「今日のミトロジー」を現代のさまざまな事象に
見出していこうとしている

そのなかからここでは
「ウルトラマン」についての章をとりあげてみる

ウルトラマンはいわば「正義の味方」だが
その実「ひとことで正義の味方とは言えない、
複雑な事情を抱えた宇宙人」である

映画『シン・ウルトラマン』を観るだけでも
そのことはよく見えてくる

映画のなかでとても興味深いシーンがある
「人間とは何か」という疑問を抱えたウルトラマンが
レヴィ=ストロースの『野生の思考』を読むシーンだ
(少しばかり露骨で説明的な挿入でもあるが)

『野生の思考』は
「人間と自然の間に壁を築くところから、
文明を作ってきた西欧」とは異なって
「人間と自然の間に壁を築かない」

従って「自然が「怪物的」な猛威をふるってくるときも、
そのことで自然に敵対しない」
ウルトラマンは怪獣と死闘を繰り広げながらも
そのことを身をもって知るようになる

ウルトラマンが『野生の思考』を読むシーンは
そんなことを暗示しようとしていたのだろうと思われる

さてここからは映画を観た感想などを

「野生の思考」と対照的なのはメフィラスである
メフィラスは圧倒的な科学技術を人類に提供し
自衛を通じて地球人類の「自立」を促しているように振舞う

それは実際は地球人類をメフィラスへ「依存」「服従」させ
他の外星人との地球の人的資源争奪戦が起こるまでに
じぶんの母星の「属星」とすることを目的としていたのだが
そのきっかけとなったのが
ウルトラマンという力への人類の依存(神格化)でもあった・・・

しかし地球人類の殲滅を目論むザラブという悪しき宇宙人も
また「宇宙の秩序を守る」という目的で
ウルトラマンの母星から派遣されたゾフィーも
「依存」「服従」ということではないが
結果として地球人類を殲滅しようとする

そんななかで半ば人間ともなったウルトラマンは
人類の自立という本来のあるべき関係性を模索する・・・

『シン・ウルトラマン』を観ながら
人間となった神的存在であるキリスト・イエスを
そこにダブらせて想像をひろげることもできる

ひょっとしたら神的存在は
ウルトラの星から派遣されたゾフィーのように
人類を殲滅する可能性もあるのかもしれず
それを人間ともなったキリスト・イエスが
人類の自立に向けた働きかけを行おうとした・・・

とはいえ深読みをすれば
ひょっとしたらメフィラスの手法のように
宗教的な「依存」によって人類を支配しようとした
といえなくもない

そうした勝手な想像はともかくとして
日本人が「ウルトラマン」という
西欧的な発想には収まりきらない存在をつくりだしたのは
「ミトロジー」としてみてもとても興味深い

■中沢新一『今日のミトロジー』 (講談社選書メチエ 講談社 2023/1)
■ロラン・バルト(篠沢秀夫 訳)『神話作用』(現代思潮新社 1967/7)
■クロード・レヴィ=ストロース(大橋保夫訳)『野生の思考』(みすず書房 1976/3)

(中沢新一『今日のミトロジー』〜「序文」より)

「ロラン・バルトは『ミトロジー』(一九五七年刊)の序文に、次のように書いている。

  以下の本文はすべて、一九五四年から一九五六年にかけて毎月、ときの現実に従って書かれた。当時わたしは、フランスの日常生活のいくつかの神話について、観測的に考察しようと試みていた。この考察の素材は極めて変化に富むことになり(新聞記事、週刊誌の写真、見世物、展覧会)そして主題は極めて任意的になっている。もちろん、わたしの現実が問題となっているのだ。(『神話作用』藤沢秀夫訳、現代思潮社、一九六七年)。

 ここに書かれていることは、そっくりそのまま、私の書いた『今日のミトロジー』にあてはまっている。(・・・)
 しかしロラン・バルトの本と私の本の間には、ミトロジーに対する認識における根本的な違いがある。言語学の時代の夜明けに書かれた『ミトロジー』は、ミトロジーがなによりも言語現象であることに焦点を合わせている。ミトロジーは通常の言語表現の上に構築されるメタ言語であり、それをつうじて象徴的含意であるコノテーションを伝達する。このような視点に立って、バルトはその時代の日常生活に浸透しているさまざまなミトロジーを考察したのである。
 これにたいして『今日のミトロジー』は、人新世の前期に書かれた本として、人間の心のなかの言語よりもさらに深い場所にセットされている、未知の構造に焦点を合わせている。『カイエ・ソバージュ』や『レンマ学』などの著作で明らかにしてきたように、この未知の構造はミトロジーというものが語られ始めた上部石器時代の人類の脳にはじめて形成され、それ以降も基本的な設計を変えることなく、現在も使用され続けている。
 ミトロジーはこの未知の構造から直接的に生み出されてくる思考である。それはおもに言語を媒体にして、現実生活の現場に実現されてくるものだから、一見するとミトロジーはまるごと言語現象であるかのように見えるが、じっさいには言語すら包摂する未知の構造から生み出されているのである。
 『今日のミトロジー』はこのような視点に立って、現代の日常生活にその姿のごく一部分を露頭させている。この未知の構造の感触を確かめようとする試みである。そのためときには、現代的事象と古代的事象とをショートサーキットで結びつけるような記述が見受けられることもある。しかしこれは神話研究にありがちな「原型への還元」とは異なるものであることを、ここでは前もって強調しておきたい。」

(中沢新一『今日のミトロジー』〜「ウルトラマンの正義」より)

「ウルトラマンが登場したのは、日本が激動の時代に突入していた一九六〇年代半ばのことで、その頃はさまざまな価値が激しく動揺していた。正しいとされてきたことが疑問視され、悪と見られてきたことをむしろ創造的であると考える人たちが出てきた。この番組を見ていた子供たちにとっては、平穏な暮らしをおびやかす怪獣と闘ってくれるウルトラマンは、まちがいなく正義の味方だっただろう。しかし番組を制作していた大人たちは、ウルトラマンがとてもひとことで正義の味方とは言えない、複雑な事情を抱えた宇宙人であることを、はっきりと理解していたことが、今ではよくわかる。(・・・)

 まっさきに浮かんでくるのは、怪獣と闘うウルトラマンの行為は、果たしてストレートに正義と言えるのか、という疑問である。番組の制作者たちは、怪獣をたんなる悪としては考えていなかった。六〇年代後半と言えば、日本の経済が高度成長期に入った頃で、各地で環境破壊が進んでいた。それまでかろうじて保たれていた人間と自然のバランスに、いたるところで裂け目ができていた。
 その裂け目から噴き出してくる、怒りに満ちた自然のエネルギーを象徴する存在として、あの怪獣たちが地中や宇宙空間から出現してきた。そうなると怪獣を地上に引き出してしまったのは人間であり、その怪獣と闘っているウルトラマンは、ねじくれた回路の中で、人間の味方をすることによって、根本的な矛盾から目をそらしていることになる。ウルトラマンのしていることは、果たして正義の行為なのか。(・・・)
 その矛盾にはウルトラマン自身が気づいていたらしく、怪獣との闘いにその内心に葛藤がよくあらわれている。(・・・)

 しかしこの迷路のような性格は、まさにウルトラマンはまぎれもないミトロジー(神話)思考の産物であることの証でもある。ミトロジーの世界には、ストレートな正義も単純な思考も存在しないからである。」

「現代の世界にもっとも欠けているのが、このようなウルトラマン的ミトロジー思考である。その欠如は、政治とメディアの世界で著しい。二〇二二年二月に始まったロシアとウクライナの戦争においても、敏捷に動く弁証法の代わりに、硬直化した形式主義が支配している。悪を体現するロシアと竜退治の聖ジョージの闘いという図式が、西側と日本のメディアを覆い尽くしている。(・・・)
 ミトロジー思考はこの世に完全な正義などはない、それはいつも悪の原理と弁証法的に一体であると考える点において、現代の形式主義的な政治思考に優っている。ウルトラマンの抱えていた内面の葛藤を思い起こすことが、今必要である。」

(中沢新一『今日のミトロジー』〜「『野生の思考』を読むウルトラマン」より)

「地球の人間に関心を抱くようになった『シン・ウルトラマン』のウルトラマンは、図書館へでかけて本を読み、人間についてもっとよく知ろうとした。そのとき彼がたくさんある人間関係の本の中から選び出したのが、『野生の思考』という人類学の本だったというので、にわかにこの難しい研究書にたいする関心が高まっている。
 この本は、一九六〇年代にフランスの人類学者クロード・レヴィ=ストロースによって書かれた。(・・・)
 レヴィ=ストロースは、『野生の思考』において、近代文化の主流になってきた人間観を、根底から覆そうと試みた。近代の西欧世界では、発達した科学と経済によって、それまでにない豊かな社会がつくられてきたという常識が、人々の思考を完全に「洗脳」しってきた。
 それにたいして。レヴィ=ストロースは発達の遅れた「未開の社会」と言われてきた低開発世界が、じつに豊かで野性的な思考哲学と、人間的な経済システムを発達させてきた世界であるかを、魅力的な筆致で描き出し、現代人のおごり高ぶった考えに、痛撃を加えたのである。
「人間とは何か」という疑問を抱えたウルトラマンが、ほかならぬこの本に関心を持ったことは、じつに意味深長である。」

「ウルトラマンが好きになった人間たちは、たしかに現代人として高度な科学技術も操れるし、資本主義の経済活動においても、きわめてエネルギッシュな人々であった。「日本人」と呼ばれるこの人間たちは、見かけだけ見ると、西欧人とほとんどかわらないことをやっている。しかし超文明の栄える宇宙の星からやってきたウルトラマンからすると、地球文明が自慢している程度のことは、そんなに魅力的ではない。
 ウルトラマンは日本人の中に、別のチャームポイントが隠されていることに気づいたのである。日本人の中には、西欧的近代のものとは異質な、別種の思考原理が息づいていて、それが彼らに「人間」としての魅力を与えているらしいと感づいていたウルトラマンは、それが何かを知りたくて、図書館の書棚から『野生の思考』を取り出した。」

「『野生の思考』は人間と自然の間に壁を築かないところに、その特徴を持っている。この点は、人間と自然の間に壁を築くところから、文明を作ってきた西欧とのもっとも大きな違いである。そのため、自然が「怪物的」な猛威をふるってくるときも、そのことで自然に敵対しないのである。ウルトラマンはそのことを多くの怪獣との闘いをとおして知るようになった。子供たちは怪獣にある種の共感を抱いているし、怪獣との死に物狂いの闘いをおこなっている大人たちでさえ、怪獣と自分たちとの内面のつながるを意識している。
 その様子を観察しているうちに、ウルトラマンの闘い方もすっかり「野生の思考」型になった。相撲やプロレスのような儀式性が、闘いの全面にあらわれた。人間に敵対してくる自然力を破壊しようとはしない闘い方である。ウルトラマンはこのような非西欧的な思考法を好ましいと思い、人類の一部とはいえ、このような考えをする人間という生物が、好きになった。その思想をウルトラマンが『野生の思考』という本から学んだかどうかは、定かでないが、この宇宙人の抱く地球人への好印象の一因となったことだけは、たしかである。」

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