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(対談)四元康祐+鴻巣有季子「言葉の素顔を掘り起こしてやろう」(現代詩手帖)/四元康祐『偽詩人の世にも奇妙な栄光』

☆mediopos3245  2023.10.6

現代詩手帖2023年10月号で
「詩作と翻訳のはざま/言語・AI・人間」
という特集が組まれ
四元康祐と鴻巣有季子の対談が掲載されている

そのなかから
「詩と翻訳はほぼ同じもの」ということ
AI翻訳ではできないこと
そしてコミュニケーション至上主義からは
抜け落ちてしまう「表現」について
のところをとりあげる

「詩と翻訳はほぼ同じもの」については
四元康祐の『偽詩人の世にも奇妙な栄光』
という小説が引き合いにだされている

「詩人という翻訳者は世界を丸ごと飲みこみ、
言葉にして吐き出す、「鵜」みたいなものだ」
そして「わたしたちはみな偽詩人であり、
見えない原文と向きあう翻訳者なのだろう」という

大江健三郎も
「私は原文なしでやる翻訳家だ」と言っているように
またクッツェーが
「作家や詩人を導管、ダクトにたとえて」いるように
「表現する」ということは
「外にあるものを内に取りこみ、
言語にして吐き出す」ようなもの

「私が」書いている
「私が」翻訳している
のではなく
それらは「私を通じて」
表現されているといったほうがいい

その「私を通じて」というところにこそ
「表現する」ということの意味があるのだろう

AIも作文や翻訳は可能だが
AIは「体を張って」それをすることはない
「体」をもたないからだ
そしてその「表現」にも
「私」でしかない「クオリア」はない
「私」がないからだ

したがって「私」が言葉にするということは
「私」でしかないがゆえの「孤絶性を引き受けたうえで、
あえて他者に向かって飛び越えてい」かなければならない

そしてそのとき
わかりやすく相手に伝えることを目的とするような
コミュニケーション至上主義では「表現」が成り立たない

リービ英雄が
「コミュニケーションと「表現」は違う」と言ったように
「これまでコミュニケートしたことのないことを
伝えるのが「表現」である。
相手が考えたこともなく、感じたこともないことを、
考えさせたり、感じさせたり」しながら
「新しい世界の把握の仕方を言葉にするのが文学」なのだ

ぼくは詩人でも文学者でも翻訳家でもないけれど
日常的なコミュニケーションではなく
こうして言葉を使うときには
「私が書く」という意識は希薄で
「私を通じて」という感覚のほうが強くある

「考える」ということも
「私が考える」というのではなく
「私を通じて考える」というほうがいい

主体は「言葉」であり「思考」であり
(それはそれらの源にあるイデアのような泉だが)
そしてそれが「私を通じて」こそ可能になるように
「私」は極めて稚拙な「ダクト」として
言葉と格闘しているともいえる

だから「言葉」共感を深めるのは
すぐれた「ダクト」に出会ったときである
逆にいえばじぶんを「ダクト」ではなく
「私が」ばかりを主張するそれであったとき
それらの「言葉」は響かない楽器のように感じてしまう
「言葉」は「訪れる」ものであり
「(吐き)出す」ものではないのだから

■(対談)四元康祐+鴻巣有季子「言葉の素顔を掘り起こしてやろう」
 (現代詩手帖2023年10月号 思潮社 2023/9)
■四元康祐『偽詩人の世にも奇妙な栄光』(講談社 2015/3)

(四元康祐+鴻巣有季子「言葉の素顔を掘り起こしてやろう」〜「詩と翻訳はほぼ同じもの」より)

「四元/鴻巣さんとお会いするのは初めてです。ただ、ぼくは鴻巣さんのことはすごく意識してきましてね。二〇一五年に鴻巣さんが書いてくださった『偽詩人の世にも奇妙な栄光』(講談社)の書評に衝撃を受けたんです。鴻巣さんが最近書かれたものを読んでいて、この書評に鴻巣ワールドのキーワードがあるのがよくわかりました。

 「ずばり、世界の成り立ちの根本原理を書いた怖い本だ。私がかねがね思うに、詩と翻訳はほぼ同じもの。だから、この小説みたいに、詩と翻訳の関係をあばくと、きわめて危険な(楽しい)ことになるわけで!
(中略)ルーマニア詩の英訳を眺めていた彼(主人公の吉本昭洋)が、その「TVウーマン」という詩をふと頭の中で日本語に翻訳しだしたとき、突如、運命の大転換は起きた。彼の中に詩がおりてきたのだ。
 眺めていたのが、ルーマニア語の原詩ではなく、その英訳だという点に、もう全力でシンパシーを感じた。そういえば、大江健三郎も西洋の詩を読む際には邦訳も横に置き、その二つの間に入ったとたん詩的呼吸が始まると、そっくりのことを語っていた。
 吉本はその後、外国語の翻訳・翻案を次々に発表して大ブレイク、国民的詩人となる。詩作品はすべて「盗作(パクリ)」。しかし、この主体性のない「空っぽ」の偽詩人は、大詩人キーツが詩人の没我を唱えた「消極的能力(ネガティブ・ケイパビリティ)論の体現者でもあり、「透明な黒子たれ」と言われる翻訳者としても最高峰ということではないか?
(中略)詩人という翻訳者は世界を丸ごと飲みこみ、言葉にして吐き出す、「鵜」みたいなものだと、この詩人は言う。わたしたちはみな偽詩人であり、見えない原文と向きあう翻訳者なのだろう。取扱注意の一冊」(「週刊新潮」二〇一五年六月四日号)

 この小説はいろんな人が書評を書いてくださったんですが、「取扱注意」と言ったのは鴻巣さんひとりです。鴻巣さん独特の世界をここに読み取られたんじゃないかと思います。

 鴻巣/この本を読んだとき、なんて怖いことを書く方だろうと思ったんです。言葉の本質的な秘密を、翻訳を通して暴いてしまうという、翻訳者からすると一番やってほしくないことをやられている。大江健三郎さんは、さっきの言葉に続けて、私は原文なしでやる翻訳家だ、というようなことを言っていました。それを読んだときも怖いと思ったけれども、詩人は世界を翻訳する存在である、というのがこの本の根底にあるんですね。小説家でも自分のなかにいい詩人がいる人しかおそらくいい小説家になれない。さらに詩人のなかには鋭敏な翻訳者がいる。つまり、翻訳は人間の知的活動の最小単位なんじゃないかなと。四元さんのこの小説はある意味で詩を解体していて、それは翻訳という営みのブラックボックスを開ける作業でもある。この本にこんな言葉があります。

「詩人というものはこの世に存在するものの中で最も非詩的なものだ、というのは詩人は個体性をもたないからだ————詩人は絶えず他の存在の中に入って、それを充たしているのだ————太陽、月、海、それに衝動の動物である男や女は詩的であり、不変の特質を身につけている————詩人にはそれが何もない、個体性がないのだ————詩人は明らかに神のあらゆる創造物のなかで最も非詩的なものだ。詩人が自我をもたないとすれば、それはもはやぼくが詩を書いているのではないと言ってもどこに不思議があるのだろうか。(中略)残念ながら告白しなければならないが、ぼくが言うどの一言でも、ぼくの生まれつきの個体性から生じた意見として認めうるものではないとうことは、まさに事実なのだ————ぼくに本性がないのだから」。

 この「詩人」を「翻訳者」と言い換えても何も違和感がありませんね。

 四元/ジョン・キーツの引用ですね。鴻巣さんの最近の著作『文学は予言する』(新潮選書)にもキーツの「ネガティブ・ケイパビリティ」が出てきました。

 鴻巣/いまネガティブ・ケイパビリティは、人に寄り添うケアの倫理、あるいは訳の分からない複雑な世の中の事実に突き当たったとき、そのわからなさに耐える力、という感じで理解されていますね。

 私が最初にこの言葉に出会ったのは、二十年余り前、J・M・クッツェーの『エリザベス・コステロ』という奇妙な短編集のなかです。クッツェーは、作家や詩人を導管、ダクトにたとえています。伝えるためのミディアムで、それ自身に積極的な意志はない、と。

 「門前にて」という短編で、エリザベス・コステロという女性作家が黄泉の国の入口で、カフカ的な門番に、お前は何者だと訊かれるんですね。「おまえの信条(belief)はなんだ?」と。コステロは、私には正体というものはありません。信条を持たないのですと答える。すると、そんなはずはない、人間なんだから何かあるだろう、としつこく訊く。いやありません、作家は世の中の真実を自分の中に下ろしてくるダクトみたいなものですからと、そういうシーンが延々とつづく。そこに出てくるのがネガティブ・ケイパビリティです。キーツは、主体的に前のめりの解釈をするのではなく、むしろ受け身で受け入れていく詩人の素質のことを言っている。クッツェーはその意味で使っていたんですね。

四元/(・・・)詩を書くにしても外にあるものを内に取りこみ、言語にして吐き出すしかないようなところがある。だから鴻巣さんのおっしゃる「詩と翻訳はほぼ同じもの」というのは、実感としてあるんですよ。」

(四元康祐+鴻巣有季子「言葉の素顔を掘り起こしてやろう」〜「意識と言葉の隙間から」より)

「四元/書評に戻りますが、最後に「わたしたちはみな偽詩人であり、見えない原文と向きあう翻訳者なのだろう」とありますね。それから、『翻訳教室————はじめの一歩』(ちくま文庫)は小学生と一緒に翻訳をしている非常におもしろい本で、そこで鴻巣さんはこんなことをおっしゃっている。

「わたしは翻訳をしていないときも、つねになにかを翻訳している」「わたしの人生はやっぱろ翻訳でできているんだな」。

 ここで言う「翻訳」は、言葉を英語から日本語に変えるということに限定されない、意識のありかたそのもの、知性の働き方のひとつのモデルとしての翻訳です。」

(四元康祐+鴻巣有季子「言葉の素顔を掘り起こしてやろう」〜「生成AIは「意図」がわからない」より)

「四元/翻訳と詩が鴻巣さんのなかでクロスしているというのがだんだんわかってきました。もうちょっと掘り下げると、『翻訳教室』でこんなことを言っていますね。

 「翻訳とは言ってみれば、いっとき他人になることです。個人的な好き嫌いや私的な感情を乗り越えた先で、実際、相手(作者)になり代わって書く」。

 自分を無にして他者になりきる、そのために想像力の壁を揺るがす。語学よりもその力のほうがよっぽど大切だ、と小学生に言っています。その気持ちが「共感とも呼ばれるもので、本を読む時にも、生きていく上でも、大きな意味をもつことがあります」と。

 翻訳で大切なのは何よりも読むことで、「体を張った読書」という言い方をしているでしょう。ここにぼくも激しく共感するんです。つまり体を張って読んでいるときは、字面をはるかに超えて没我して、対象とひとつになりきる、そこからじゃないと翻訳はできない。そういうふうにぼくは受け取りました。」

(四元康祐+鴻巣有季子「言葉の素顔を掘り起こしてやろう」〜「孤絶性を引き受けたうえで」より)

「四元/AIと人間の訳の差を、鴻巣さんは意図とおっしゃいました。もう一歩進めて、意識のクオリアという言葉があるでしょう。「赤」の意味は本で読んでもわかるけど、真っ赤なものを見たときに「わっ、真っ赤」と思う。「わっ」というそれを哲学用語でクオリアと言う。きわめて主観的な現象で、意識のある人はクオリアを感じている。「体を張った読書」と言う時に、鴻巣さんはクオリアを感じなきゃだめだよと言っていると思いました。というのも、クオリアは本来孤絶しているものなんですね。さっき「わっ」と言ったけど、それを鴻巣さんの「わっ」と比較したり交換したりはぜったいにできない。ぼくの意識にある赤と鴻巣さんの意識にある赤はちがって、それを見せ合うこともできない。」

「四元/孤絶性を引き受けたうえで、あえて他者に向かって飛び越えていく。それは人間が生きていることの根本になりますね。」

「鴻巣/昨今、コミュニケーション至上主義になっていますね。とくに英語教育はそちらに偏っています。もう三十年、四十年前からコミュニケーション重視の英語教育に舵を切って、だからといって大学生の英語力が上がったかというと、難しいところがある。国語教育の改革で、論理国語が文学国語と分けて導入されたのも、わかること、通じることっているコミュニケーションが土台ですね。

 私は翻訳の授業の最初に、伝わりやすいことや、こなれた訳文を目指して進まないでください、と言うんです。授業で、どうしてここをこう訳したのって訊くと、必ず出てくる答えが「こっちのほうが読みやすいから」。刷り込まれているんだと思う。わかりやすく伝えなきゃいかないとか、つか割りにくいことは悪であるみたいな。もちろん翻訳だから伝わらなくちゃいけないんだけど、コミュニケーション至上主義に、私はやっぱり抵抗を覚えるんですね。

『文学は予言する』でも引きましたが、「コミュニケーションと「表現」は違う」とリービ英雄さんは言っています。「これまでコミュニケートしたことのないことを伝えるのが「表現」である。相手が考えたこともなく、感じたこともないことを、考えさせたり、感じさせたりするのは大変なことだから嫌がられることも多い。しかしそのようにして新しい世界の把握の仕方を言葉にするのが文学なのであり」と。コミュニケーションだけを目指して進まないで、というのはそういうことなんです。」

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