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古田徹也『謝罪論 謝るとは何をすることなのか』

☆mediopos3242  2023.10.3

古田徹也『謝罪論』には
「謝るとは何をすることなのか」
という副題があるように

満員員電車のなかでひとの足を
踏んでしまったときのような謝罪から
事件の加害者による被害者への謝罪
差別的言動や医療過誤
戦後責任などをめぐる謝罪等々
さまざまな事例がとりあげられながら

「責任」「後悔」「償い」「赦し」
「当事者」「誠実さ」といった
謝罪に関連した概念の関係から
「謝るとは何をすることなのか」が
具体的に解きほぐされてゆくのだが

いうまでもなく
「謝罪」をめぐるさまざまは
複雑かつ多種多様であり
一様にマニュアル化できるようなものではない

「謝罪」について考えることは
謝罪する者と謝罪されるものとの間で
さまざまに展開されることをめぐって
「社会で他者とともに生きていく仕方」を
学んでいくことで

「我々の生活や社会について、
ひいては我々自身について、
より深い理解を獲得すること」でもある

さて本書を読みながら
「謝る」ことの根底にあるのは
なにかを考えてみたのだが

それは「与えること」と
それによって「与えられること」の
バランスを修復しようとすること
なのではないかと思われる

日本語の「すみません」というのは
「済まない」「収まらない」
ということからくる謝罪であり
ときには感謝を表すこともある言葉だが

「済まない」から「済む」ようにと
逆の働きかけが必要になるのである

それは感情的な問題のときもあれば
具体的に賠償を伴う問題のときもある
そしてそこには単純な「自−他」だけではなく
双方をめぐるさまざまな人たちも関わってくる

「謝罪」が必要とされるのは
主に社会的なルールや倫理が損われるときだが
それらと関係した個人的な関係性からのものでもある

そうした関係性はさまざまで
単純な問題もあれば
複雑かつ利己的な利害が加わってくることもあり
国(行政)や企業やメディア等が
さまざまな力を及ぼしてくるときもある

そして「済む」か「済まない」かを
どのようにバランスさせるか
あるいはバランスの破綻したままになるかも
一様ではなく多種多様である

しかし表面的な現象の有無を問わず
おそらくすべての根底には
「与えたものが与えられる」という
原則が働いていると思われる

その意味で言えば
「謝るとは何をすることなのか」という問いの答えは
いわば「動的平衡」を
あるいは「中道」を図ろうとする営為だ
といえるのかもしれない

■古田徹也『謝罪論 謝るとは何をすることなのか』(柏書房 2023/9/)

(「プロローグ」より)

「「すみません」といった言葉を発したり、頭を下げたりするだけでは駄目なのだとしたら、何をすれば謝ったことになるのだろうか。声や態度に表すだけではなく、ちゃんと申し訳ないと思い、責任を感じることだろうか。しかし、「申し訳ないと思う」とか「責任を感じる」とはどういうことなのだろうか。そして、そのような思いや感覚を相手に伝えるだけで、果たして良いのだろうか。結局のところ、「謝る」とは何をすることなのだろうか? 」

「謝罪とは、互いに関連し合う多種多様な行為の総体にほかならない。いくつかの種類の謝罪に共通して言える特徴が、別の種類の謝罪には当てはまらない。ある種類小野謝罪に対しては申し分のない説明が、別の種類の謝罪に関しては不適当な説明になる。————種々の行為の具体的な中身を解きほぐし、その全体を見渡すことによってはじめて、「謝罪とは何か」という大きな問いに答えることができる。本書はその実践である。

 しかし、そのような実践にどんな意味があるのだろうか。我々が日々、実際に謝罪したり謝罪されたりすることができているのなら、それで充分ではないか。(・・・)

 この疑問に治しては、主に二つの観点から応答することができる。まず一つ目は、我々は自分自身のことを必ずしもよく理解しているわけではない、という点である。謝罪という行為は社会のなかで非常に重要な位置を占めており、我々の生活の隅々にまで深く根を張っている。だからこそ、謝罪の内実は複雑であり、多種多様なのだとも言える。(普段は目立たず、注目されにくい謝罪の諸特徴を、あらためて照らし出していくこと(・・・)は、なかなか骨の折れる道のりだが、我々の生活や社会について、ひいては我々自身について、より深い理解を獲得することにつながるはずだ。(・・・)

 そしてもう一つは、実際のところ我々は必ずしも適切に謝罪ができているわけではない、という点である。(・・・)
 そして、謝罪の不適切さは、謝罪を求める(謝罪を受ける)側についても言うことができる。

(・・・)

 我々が謝罪しようとするとき、具体的には何をしようとしているのか。また、相手に謝罪を要求するとき、いったい何を求め、何を願っているのか。これらを詳しく。明確に捉えることは、我々が自分自身を知り、自分の心情や思考を整理して、不適切な謝罪や不必要な謝罪を回避することにつながるだろう。また、その場を収めるためだけの謝罪(・・・)が蔓延しているこの社会にあって、現状を見直す足がかりにもなりうるだろう。」

(「第1章 謝罪の分析の足場をつくる」より)

「そもそも「謝罪」という概念は、「責任」や「償い」、「約束」、「誠意」、「後悔」、「赦し」等々の諸概念との複雑な関係によって輪郭づけられるものであり、それぞれの概念の内実も、また、「謝罪」がどのような概念とどのように関係するかということも、文化によってさまざまに異なりいる。日本語文化圏において「謝罪」が「感謝」と深く結びつくという(・・・)事実は、この点を如実に示すものだ。」

(「第2章 〈重い謝罪〉の典型的な役割を分析する」より)

「刑罰を科すことを主軸におく刑事司法の実践では、加害者が公訴事実を認めて行う謝罪は、友愛であることの重要な証拠になるだけでなく、刑罰の程度や種類に影響を与える可能性がある。また、加害者の再犯を抑止する特別予防の観点からも、謝罪の有無やその内容は考慮すべき事情のひとつとなる。だが、刑罰それ自体に関して、謝罪というものは不可欠な本質的要素ではない。謝罪の有無やその内容にかかわらず、刑罰を科すことは可能だからだ。
 他方、刑罰を科すことを必ずしも前提とせずに、人々およびその関係の修復を目指す修復的司法の実践では、理想的には被害者と加害者の間に若いが成立し、それが社会の維持や修復につながることが期待されている。したがって、そこでは謝罪という行為が、若い成立のための前提として本質的な役割を担うと言える。」

(「第3章 謝罪の諸側面に分け入る」より)

「謝罪の十全な定義づけを試みる議論としては、(・・・)哲学者の川﨑惣一は、特にGill(2000)とKirchhoff et al.(2012)における整理を踏まえ、「謝罪を構成する不可欠な要素」(川﨑二〇一九:39)として以下の五点を挙げている。

  (1)謝罪の内容となる出来事の認識
  (2)自己への責任の帰属
  (3)後悔・自責
  (4)被害者への償い
  (5)未来への約束」

「謝罪の重要な諸特徴をいくつか挙げて検討したが、そのなかで度々浮上してきたのは、謝罪の誠実さ、真摯さ、誠意の有無といったポイントである。謝罪は多くの場合、加害者の罪悪感や反省の念といった思いを被害者に伝えるものとなるし、また、それだけに、その思いが伝わるかどうか————あるいは、加害者が本当にその思いを抱いているかどうか————が、謝罪の成立や赦しの可能性にとってネックともなりうるのだ。」

「謝罪するという行為には、罰や賠償を避けるためという意味での利己性だけではなく、楽になるためという意味での利己性も見出すことができる。「すみません」という言葉が元々は「自分の気持ちが済まない、収まらない」ことを表すという点も、すでに確認した通りだ。謝罪は、私(わたくし)のない誠実さがしばしば求められるものでありながら、そこには利己性が深く刻印されてもいるのだ。そして、そうであるからこそ、誠意の証を示すことによって誠実さに対する懐疑を振り払うことが多くのケースで必要になるのである。」

(「第4章 謝罪の全体像に到達する」より)

「謝罪には国家の代表者だからこそ可能なものがあり、その種の謝罪はときに独自の重要な役割を果たすことがありうる。
 ただ、それだけに、ここには特に注意すべきポイントも存在する。一つ目は、和解や赦しへの圧力が生じやすいという点である。
(・・・)
 もう一つの注意すべきポイントは、国家の代表者による謝罪が「私たち」や「我々」といった大きな主語によってなされることに向けられいる懸念だ。それは一方では、過大包含の懸念である。すなわち、謝罪の主体にあまりに多くの人々が————本来ならば謝罪すべきでない人も————含まれかねない、ということ。また、謝罪の主体が負う責任の程度が低減されかねない、ということだ。そして他方では、過小包含の懸念がある。すなわち、ある出来事について我々に責任があると言うことによって、その出来事を実際に引き起こした者をはじめ、具体的な因果責任を負うべきはずの特定の者たちの責任を免除したり過小評価したりすることになりかねない、ということだ。」

「最も重要なのは、マニュアルでは対処しきれない現実の難しさに対して、骨折ることを厭わずに向き合ってよく考えることだ。本書ではこれまで、謝罪することを難しくさせる要素をさまざまに挙げてきた。たとえば、損害を埋め合わせることの難しさ(=損害の取り返しのつかなさ)。和解や赦しの難しさ。心から反省して改心すりことの難しさ。謝罪の客体の拡張性・曖昧性・多重性にまつわる種々の難しさ。誰かとともに————あるいは、誰かの代理や代表として————謝罪することの難しさ。そして、誠意を証立てることの難しさ。
 相手の圧力をかけて問題の解決を図ること————土下座をし続けるとか、周囲の同情を買うなどして、和解や赦しを諦めることだ。また、謝罪する側だけでなく謝罪を要求する側も、こうした難しさを無視することで真摯さを失う恐れがある。たとえば、何が損なわれ、何が埋め合されるべきなのか。なぜ他の行為ではなく謝罪を求めるのか。なぜ、その人ないしその集団に謝罪を求めるのか。————これらの点を何も考慮することなく謝罪の要求をしても、問題の解決への糸口を見出すことは困難だ。また、そのような無闇な要求は(・・・)不当な圧力や脅しや暴力に堕してしまいかねない。
 謝罪という行為は。それをすることも、それを要求することや受けることも、決して簡単とは言えない。この点をまず踏まえることが、謝罪を良いものとするための第一歩であることに間違いはない。」

(「エピローグ」より)

「子どもに謝罪の仕方を教えるのが難しいのは当然だ。なぜなら、それはほとんど、この社会で他者とともに生きていく仕方を教えることだからだ。たとえば、電車では何をしてよくて、何をしてはいけないのか、といった社会のルール(マナー、道徳、法など)。何が重大な出来事なのかや、人が何に傷つくのかなどについての知識や感覚。取り返しのつくものとつかないものの区別。約束の仕方。責任とは何か。誠実さとは何か、等々。
(・・・)
 本書は、子どもが次第に大人に成長し、謝罪の諸側面やその関係を学び、やがて、謝罪をすることの真の難しさと重要性を知る地点まで、その過程を辿り直す道行きだったと言える。そして、本書の末尾に至って我々がいま立っているのも、まさにこの地点である。」

【目次】
プロローグ
第1章 謝罪の分析の足場をつくる
第2章 〈重い謝罪〉の典型的な役割を分析する
第3章 謝罪の諸側面に分け入る
第4章 謝罪の全体像に到達する
エピローグ

○古田徹也〈ふるた・てつや〉
1979年、熊本県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科准教授。東京大学文学部卒業、同大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。新潟大学教育学部准教授、専修大学文学部准教授を経て、現職。専攻は、哲学・倫理学。『言葉の魂の哲学』で第41回サントリー学芸賞受賞。その他の著書に、『それは私がしたことなのか』(新曜社)、『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』(角川選書)、『不道徳的倫理学講義』(ちくま新書)、『はじめてのウィトゲンシュタイン』(NHKブックス)、『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)、『このゲームにはゴールがない』(筑摩書房)など。訳書に、ウィトゲンシュタイン『ラスト・ライティングス』(講談社)など。

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