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香川照之主演・映画『宮松と山下』

☆mediopos2953  2022.12.18

地元の小さな映画館で
気になっていた映画
香川照之主演の『宮松と山下』を観る

関友太郎・平瀬謙太朗・佐藤雅彦という
なんと3人!の監督集団「5月」による
初の長編映画だという

香川照之が演じるのは
12年前に記憶をなくし行方不明となって
なぜか「宮松」と名のっている
もともとは「山下」である人物である
3人の監督に対して2つの名をもつ主人公

宮松は映画のエキストラをしている

映画は侍に刀を振りかざすすが
斬り返され倒れるところから始まる
その後もヤクザやサラリーマンなどを
演じているいろんな宮松がいる

一瞬本人のように思えても
それは宮松がエキストラとして演じている
「誰が演じてもいいが
誰かが演じなくてはならない役」なのだ

エキストラ俳優だけでは食べていけないと
ロープウェイの仕事も掛け持ちしている
ロープウェイもいわば地から離れた仕事である

その後元タクシー運転手をしていた同僚が現れ
12歳ほど年下の妹に再会する・・・
(香川照之のインタビューにあったが
その元同僚を演じている尾美としのりは
香川照之と生年月日がまったく同じである)

予告編の最後に
「どれが本当の彼なのか」
「昨日までの自分を失ったら何を演じたら良いのだろう」
という言葉が映されるが

少し自分をふりかえってみるだけでも
自分はほんとうは「名もなき誰かを演じ、
名もなき自分を演じ」ているのではないか
という思いはつねにある

たとえ「もうひとりの自分」を
思い出したとしても
その自分もまたひとつの「役」にすぎない・・・

『宮松と山下』は不思議な余韻の残る映画である
やはり香川照之の演技
とくにその表情のさまざまなペルソナは
形容しがたいほどに絶妙なまでの深みを感じさせる

■香川照之主演・映画『宮松と山下』

香川照之
津田寛治 尾美としのり
野波麻帆 大鶴義丹 尾上寛之 諏訪太郎 黒田大輔
中越典子
監督・脚本・編集:関友太郎 平瀬謙太朗 佐藤雅彦
企画:5月
制作プロダクション:ギークサイト
協賛:DNP大日本印刷
配給:ビターズ・エンド
製作幹事:電通
製作:『宮松と山下』製作委員会(電通/TBSテレビ/ギークピクチュアズ/ビターズ・エンド/TOPICS)
(C)2022『宮松と山下』製作委員会

(「パンフレット」より)

「名もなき誰かを演じ、名もなき自分を演じる。

早く専門のエキストラ俳優、宮松。
来る日も来る日も、名もなき人物を演じ続ける。
しかし、彼には彼が知らない「もうひとりの自分」がいた。

宮松は端役専門のエキストラ俳優。ロープウェイの仕事も掛け持ちしている。

時代劇で大勢のエキストラとともに、砂埃をあげながら駆け抜けてゆく宮松。
ヤクザのひとりとして銃を構える宮松。
ビアガーデンでサラリーマンの同僚と酒を酌み交わす宮松。
来る日も来る日も、斬られ、撃たれ、射られ、時に笑い、そして画面の端に消えていく。
そんな宮松には過去の記憶がなかった。

ある日、谷という男が宮松を訪ねてきた。宮松はかつてタクシー運転手をしていたらしい。藍という12歳ほど年下の妹がいるという。

藍とその夫・健一郎との共同生活がはじまる。自分の家と思えない家にある、かつて宮松の手に触れたはずのものたち・・・・・・
宮松の脳裡をなにかがよぎっていく・・・・・・・」

( 「パンフレット」〜「香川照之インタビュー」より)

「————本作の脚本を初めて読んだときの印象や感想を教えてください。

香川照之:最初の5ページ辺りですでに、なにがゾワゾワしたものが鮫肌のように逆立っている奇妙な感覚に襲われ、それが拭っても拭っても決して拭えないネバネバした蜘蛛の糸のように台本の紙面にビッシリはびこっているものだから、読むほどに脅威というか、畏怖というか、この脚本はとんでもないことに挑戦しようとしているのだという危険な警告がまず私の心の中で鳴り響きました。次に20ページほど読み進めると、この映画はどこに行こうとしているのかすら分からなくなって、今度は大いなる暗闇に突き落とされつつある感覚に襲われました。さらに半分くらい読み終えた段階では。それまで分身の術のように読む者にキャラクターを摑ませなかった主人公の多層さが頂点に達してこちらを老いに困惑させ、その後一応のクライマックスのようなものが書かれてあるページまで読んだところで、さてこの映画はどういうフィニッシュで決着させるのか凡庸な思考の私には皆目わからない状態が続き、この脚本の作者の掌の上で最後まで踊らされて翻弄されて、嵐のような暴風雨に木の葉のように吹き飛ばされながら、そのままあっという間に読み終わってしまったという記憶があります。しかし全部読み終えてみたら、私の頭の中はもう既にすかさず、さて各場面をどう演じるか、台本の字面通りの解釈から思惑を完全に裏切った解釈までが立体的に積み上げられ、その演技への建築図面は100通りにも200通りにも膨らんでいたのです。一瞬で恋に落ちた脚本でした。」

( 「パンフレット」〜「映画『宮下と山下』監督インタビュー」より)

「————俳優の中でも匿名性の高い「エキストラ」と「記憶喪失」というモチーフの結びつけ方がとても興味深く、作中でも上手く機能しているように思いました。宮松が山下だった頃の職業はタクシーの運転手でしたが、「タクシーの運転手は言われたところに行けばいいから楽だ」というセリフもあります。この主体性を持って生きなくてもいい。あるいは、個を消して生きることへの肯定感が、この作品のユニークな視点でもありますね。
平瀬/今となっては、そのテーマも認識しているのですが、最初からそういったテーマを描こうとしていたわけではないんです。当初は、先ほどお話ししたような「斬られた人が立ち上がって、次の役を演じる」といったエキストラの面白さを映画にしたいと思って企画が立ち上がりました。エキストラが主人公だとすると、どのような物語が生まれると良いのかを考えて、議論して、見つけたのが「記憶喪失」だったり「タクシーの運転手」だったりします。」

( 「パンフレット」〜金原由佳「人生をのぞく映画の窓の開き方は無限に存在する。」より)

「ただ、ひとつはっきりしているのは、従来の日本映画ではスクリーンの端っこに映るだけで、多くの観客にとっては目にも脳裡にも刻み込まれない脇役の宮松がこの映画で常にスクリーンの真ん中にいるということだ。」

「終盤、山下の記憶と人格を取り戻した男は、宮松として繰り返し演じてきたエキストラの脚本のコピーをきちんとファイリングした棚えお改めて見つめ直す。これは前半にも出てきたシーンだが、見ている私たちの心象がまるで違うことに気づかされるだろう。その間に何が起きたか知ったからだ。
 ちなみに冒頭に紹介したコラムで市川崑は映画をこう形容している「人生をのぞく窓」だと。
 窓の開き方は無限に存在する。そのことを「5月」の3人の監督たちと本キャストが雄弁に教えてくれるのだ。」

( 「パンフレット」〜佐々木敦「「誰か」を演じる男」より)

「宮松は幾つもの映画でエキストラ=誰が演じてもいいが誰かが演じなくてはならない役を演じている。その仕事が彼にとって居心地がいいのは、言うまでもなく彼自身が自分が誰なのかわかっていないからである。いつのまにか名のっていた「宮松」は仮初めの名前に過ぎず、元同僚によってはじめて彼は自分が「山下」だったことを知るかのように見える。彼はいわば誰でもない人物を演じる誰とも知れない男である。彼はエキストラをする以前まず「宮松」を演じているのであり、自分が「山下」だと知らされると、今度は「山下を演じる宮松」を演じていくかのように見える。」

「要するに彼は自分自身を演じようとしたかもしれないのだ。誰でもあり得るが、しかし同時に誰でもないエキストラとして、そして映画の結末で、彼は「山下を演じる宮松」を演じることをやめ、長らくそうだった「宮松を演じる山下」を演じながら生きてゆくことを決意したのかもしれない。」

◎香川照之主演、映画『宮松と山下』ミステリアスな90秒予告編
 【2022年11月18日公開】
https://www.youtube.com/watch?v=yIP3h2Ii8QU

◎映画『宮松と山下』公式サイト


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