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難波優輝『メタバースは「いき」か?――やましさの美学』(『現代思想2022年9月号 特集=メタバース』青土社 所収)

☆mediopos2747  2022.9.3

メタバースというテーマに
九鬼周造の「いき」が
対比されているのが面白い

メタバースに生きることは
「逃避」であるというのだが
それは道徳的な観点からそうだというのではない

「いき」ではないという観点から
美的な観点からして
現実からの逃避だというのである

「現実から自由になるメタバースの住民は、
現実の苦しみに飲み込まれることなく、
苦しみを引き受けて遊ぶ現実のいきの空間から離脱する。
現実に一緒に苦しみそれに抗うという
「いき」な遊びをしてくれない、という「だだ」だ。
心理的というより美的な批判。」

九鬼周造に関する著書『出逢いのあわい』のある
今はなき宮野真生子によれば

「人間が存在し、私とあなたの間に
偶然的な環境や身体の違いがある限り」
私たちは「やましさから離れることはできない」という
そしてその「やましさ」は
「間柄」から生まれるという

「間柄」といえば和辻哲郎だが
和辻哲郎は人間の有り様を
「である」と「がある」から分析している

「がある」は
「私たちが存在しているという事態そのものを指す」が
「である」は
「社会的な関係の中で生きる私たちのありよう、
つまり間柄的関係を意味」している

私たちは「自分がこのようにしかありえないという」
「である」性を否応なく引き受けなければならない
私たちはじっさいの顔と身体を持って
「間柄」のなかで苦しまざるをえない

メタバースではそうした「である」性が希薄であり
そこでは「やましさ」を感じることはないが
現実の人間的な苦しみのなかで私たちは
互いに「である」性を感じ「やましさ」のなかで
相手の抗いに魅惑されもし
そこで「根源的な偶然性への出会い」があり
そのなかで「いき」も生まれる

「いき」は
「この身体、顔を持って生まれて」きた
私たちの「間柄」からしか生まれない

いまのところどう考えても
バーチャルはそうしたフィジカルを超えることはなく
そこから「いき」が生まれることもない
いわばポエジーの可能性が失われているということだ

■難波優輝『メタバースは「いき」か?――やましさの美学』
(『現代思想2022年9月号 特集=メタバース』青土社 022/8所収)

「メタヴァースに生きようとする人は現実から「逃避」しているのだろうか?
 私にはメタバースがユートピアであるといったビジョンへの違和感がある。メタバースでなら、現実ではなれない自分になれる。かわいいアバターを使うことで、心理的障壁を減らし、コミュニケーションの幅を広げられる。いいことだ。しかし、違和感を覚える。こうした違和感はメタバースにおける生が何某か「逃避的」なものに見えるから、かもしれない。しかし、何からの逃避だろうか?」

「この身体、顔を持って生まれてくる私たち、好むと好まざるとにかかわらず、この身体なしで私たちは触れあえない。この身体によって確かさを好み、嫌う。逃れがたいこの身体を生きて、私たちはストレスと抑圧に押しつぶされ、挫折を味わい続ける。私たちは確かに愛されなかった。ネガティブな機会は、私たちを研磨する。私たちは「顔に責任を持つ」ようになる。自分たちの限定性をやり過ごし、少しずつ引きうけることで生まれる。独特の美しさ、独特な格好良さがある。
 アバターを用いてコミュニケートするメタバースでは、こうした諦めから生じる「美的な良さ」を見出すことは難しい。ここに、メタバースの逃避的側面がある。互いの生まれつきの身体を無視して、アバターを使って会話する。葛藤はなく、諦めはない。諦める必要はない。ゆえに、何かから逃げているのではないか?しかし、いったい何から?
 メタバースに対する「逃避」の指摘は、メタバースの自由さと裏表の関係にある。メタバースは自由である。そこでは、自らの身体の限定性に縛られる必要はない。私にも自由な姿形で生きることへの憧れがなくはない。しかし、同時に、どこか軽薄にも見える、仮想空間に生きることへの違和が私にはある。両義的な感覚。人生の重責から解放された喜びと、何か重大な責任の抜け落ちが同時にしょうじているのではないか。このアンビバレンツは何だろうか? 私は彼らを道徳的になじりたいのだろうか? それとも————?
 この奇妙な観念を捉える概念が「いき」である。本稿は「いき」とアバターをめぐる美学である。」

「何の話か。メタバースで生きようとする人、アバターの制作で美的なよさを目指そうとする人が逃避的に見えるのはなぜか? 指摘は道徳的なものではない。美的な指摘なのである。メタバースに生きることは「いき」でないからだ。
 いきは、それを体現することが「格好よく」「イケていて」「垢抜けていて」「美しい」美的によい態度なのである。私たちはそれを称賛する。そして、ときにいきの欠如を悪しきものとし捉える。
 メタバーではいきは不可能である。与えられた身体を受け入れながら抗う必要などないから、与えられた環境を受け入れながら克服する必要はないから。身体は与えられるのではなく選ぶ。環境は受け入れるのではなく作る。ここにいきの契機はない。メタバースにいきの可能性はない。
 あまりにも厳しいものいいだろうか?誰もが自由に自分の姿を選べる世界の方がいいのではないか。誰もが苦痛なくのびのびと生きられる世界の方がいいのではないか。
 その通り。いきは、やましい。いきには道徳的なやましさがある。」

「九鬼周造の『「いき」の構造』において、色街に住む芸姑たちが執拗に登場するのは、彼が芸姑を務めていた女性と結婚したことによるだけではなく、根本的に、九鬼の言う「いき」というものが何か極めて苛烈な世界の中で成立するものであることを示していると取れないだろうか。
 私たちは、なんの苦労もしなかった人を幸福な人だと言う。だが、いきな人とは言わない。現実に対して何の抗いもない人を平和な人だと思う。いきな人ではない。
 いきが美的によいものである限り、それは私たちを惹きつける。私たちは美的によいものである限り、それは私たちを惹きつける。私たちは道徳的な存在であると同時に美的な存在である。より美的によいものに惹かれ魅了される。
 誰かにいきを感じることは、それ自体で道徳的にやましい。そのやましさこそが、いきな人が私たちを惹きつけるあの引力である。
 メタバースはユートピアだ。強制された姿ではなく、選んだ姿で生きられる国。だが、ユートピアにいきは存在しない。
(…)
 私は、メタバースに生きることを逃避と言った。それはいきではない、という指摘だった。現実から自由になるメタバースの住民は、現実の苦しみに飲み込まれることなく、苦しみを引き受けて遊ぶ現実のいきの空間から離脱する。現実に一緒に苦しみそれに抗うという「いき」な遊びをしてくれない、という「だだ」だ。心理的というより美的な批判。」

「私とあなたが対面する。互いに悪意がないのに、私とあなたというだけで私はやましさを感じる。なぜ私はあなたのように深く傷つかないでおれたのか。なぜ私は煩悶するあなたの前で幸福であるのか。私の存在自体が、うっすらとやましい。
 人間が存在し、私とあなたの間に偶然的な環境や身体の違いがある限り、私たちはこうしたやましさから離れることはできない。
 宮野(真生子)はこうしたやましさが「間柄」から生まれると言う。やましさを感じる理由「それは、苦しむ他者を前にして「病者と健康な者」「被災者とそうでない者」といった間柄が開かれるからである」。間柄は教師と生徒、大人と子供のような社会的関係であり、私たちの行動や態度の可能性を規定するものだ。いっさい間柄ももたずに交流できない。初対面ですら「初対面」という間柄に規定され、無礼な振る舞いをしないようにする。
(…)
 宮野が指摘するようなやましさは、しぴったれていて、できることなら目を背けたい。ないほうがいい。彼我に不平等な差などないほうがいい。みんなが同じくらい幸せなほうがいい。だが、こうしたしみったれこそ、私たちの情愛の起源で、美の源流である。
 宮野によれば、和辻哲郎は、人間のありようを「である」と「がある」から分析した。「である」というのは社会的な関係の中で生きる私たちのありよう、つまり間柄的関係を意味し、「がある」とはそうした間柄を成り立たせる根源の要因、すなわち、私たちが存在しているという事態そのものを指す。
 私たちは逃れがたい、自分がこのようにしかありえないという自分たちの「である」性を引き受けなければならない。顔と身体を持った私たちは間柄の中で苦しむ。
 メタバースでは「である」性を薄めて出会える。互いに「やましさ」のない社交を行うことができる。だが「である」性を互いに感じ、やましさの中で、しかし、相手の抗いに魅惑されること。いかにも人間的な苦しみから生まれるとき、私たちを惹きつけてやまない。これが、私たちを偶然性の原風景へと還していく。つまり、私たち「がある」という偶然の理由なき驚異の体験へと人々を導く。」

「いまのメタバースは「いき」か? 私はNOと答える。
 理想的なメタバースでは現実で可能な「いき」という美的なよさを生きることができない。いきが可能である世界とは、それが偶然の不幸に満ちた世界であるということ、所与の苦しみ(親ガチャ、周囲の無理解、障碍、ルックス、不幸な環境)を部分的せ背負わなければならない世界であることだ。」

「いきは趣味の問題である。道徳的な問題ではない。道徳的に非難はできないが、私たちの人生においてその人を好んだり、尊敬したり、パートナーとしたりするときに重要になるのは、道徳的な事柄と同じくらい、美的な事柄だろう。いまのメタバースを生きる人々は、いきよりも現実からの自由を取る。それはいきではない。だから、いきを美的によいものだと感じる人々が、メタバスを手放しに褒めることはできない。(…)私たちは苦しみのなかで「いき」に生きることを選び取ろうとする。そこから、宮野の言うような、根源的な偶然性への出会いがあるように思われる。なぜか? それが「いき」だからだ。」

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