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石井ゆかり「星占い的思考㊱かたわれと出会うまで」(「群像」)/カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』/上田閑照・柳田 聖山『十牛図』

☆mediopos-3007  2023.2.10

「二つで一つ」

わたしとあなた
わたしとわたしのなかのもう一人のわたし

有(存在)と無
善と悪

「一体になり、完全になりたい」
というのは
ある意味で根源的な衝動なのかもしれない
一元論へのプロセスとしての二元論

2023年2月から3月
木星は牡羊座に
牡羊座の支配星としての戦闘の星である火星が双子座に位置し
「双子」的なテーマが闘いに燃えているのは
「二つ」が「一つ」になろうとする
言うに言われぬ衝動を象徴しているのだろう

禅の十牛図の
ほんらいのじぶんを見つけようとするプロセスも
「善半」と「悪半」にわかれて
「戦いの末にひとつになる」プロセスも
その点では相似的であるといえる

「人」と「牛」
「善」と「悪」
それぞれの両者を
同一視することはできないが

「二つ」が「一つ」になろうとするプロセスにおける
それらの「闘い」をしっかり見据え
じぶんがいまそのどこにあるのか

そしてその先にあるものが
なんなのかを想像してみることで
はじめてひらけてくる視座もありそうだ

■石井ゆかり「星占い的思考 ㊱かたわれと出会うまで」(「群像 2023年 03 月号」所収)
■カルヴィーノ(河島英昭訳)『まっぷたつの子爵』(岩波文庫 2017/5)
■上田閑照・柳田 聖山『十牛図―自己の現象学』(ちくま学芸文庫 1992/11)

(「石井ゆかり「星占い的思考 ㊱かたわれと出会うまで」より)

「〝もしもおまえが半分になったら、そしてわたしはおまえのためにそれを心から願うのだが、少年よ、ふつうの完全な人間の知恵ではわからないことが、おまえにもわかるようになるだろう。おまえはおまえの半分を失い、世界の半分を失うが、残る半分は何千倍も大切で、何千倍も深い意味をもつようになるだろう。〟(カルヴィーノ著 河島英昭訳『まっぷたつの子爵』岩浪文庫)

 メダルド子爵はトルコ人との戦争で大砲の弾を受け、「まっぷたつ」にされてしまった。悪そのものの「悪半」、純粋な善人の「善半」に。引用したのはこの物語の語り手であるメダルド子爵の「甥」に、「悪半」が語りかけた言葉の一節だ。一方「善半」も、恋人に同じようなことを語っている。

 人間が「二つで一つ」になるというこのイメージは珍しいものではない。プラトンの『饗宴』にも、もともと人間は球体であったものが二つに切りはなされたものだ、と語られる。また、『とりかえばや物語』のように、よく似た二人が入れ替わる、というモチーフもポピュラーである。ケストナー『ふたりのロッテ』のように双子が入れ替わるものも多いが、オルハン・パムク『白い城』のように、完全な他人が入れ替わるケースもある。」

「『まっぷたつの子爵』では、ダイレクトに一人の子爵を二人に割ってしまっている。なんと乱暴な、と思うが、案外これこそが「入れ替わりモチーフ」の本質なのではないか。「もう一人の自分」に会わなければ「完全」になれない、というイマジネーションは、いったいどこからくるのだろう。」

「この『まっぷたつの子爵』を読んで思い出したのが、「十牛図」だ。これは、禅宗の教えを絵と詩で解りやすく示したストーリーである。人が牛を捕まえ、それを馴らしてゆくプロセスに、禅の悟りのプロセスが重ねあわされる。「牛を捕らえる人」は悟ろうとする自己、「牛」はその人の本当の自己、または悟り、心、等に擬えられる。ここでも、「自分」は「人」と「牛」にわかれている。哲学で言う「即自」「対自」の別にも似ている。自分がありのままの自分として生きているときには、自分のことも世界のことも、よくわからない。「自分」が「自分自身」を外的な対象として意識始めたときに、「ふつうの完全な知恵ではわからないこと」がわかりはじめる。」

「星占いにも「双子座」がある。その神話には「戦闘」がまとわりついている。双子はいつも一緒に敵に立ち向かい、戦闘でカストルが命を落とすと、残るポルックスは「自分だけ生き存えるわけにはいかない」と神に祈ったので、二人一緒に、一日おきに天界と下界で暮らすことを許された。ちなみにまっぷたつになったメダルド子爵の「善半」と「悪半」は互いに闘った末に一体に戻った。経緯は違っても、いずれも「戦いの末にひとつになる」のだ。

 2023年2月から3月、木星は牡羊座に、火星は双子座に位置している。火星は戦闘の星で、牡羊座の支配星でもある。「双子」的なテーマが闘いに燃えている。現実の双子の人々はもちろん、独立した別個の存在で、「ふたりでひとつ」などでは決してない。でも、象徴の世界での「双子」は、人間と人間が何らかの闘争の末、一体になり、あるいは完全になる、というイマジネーションの投影なのだろう。たとえば人は他者に出会う時、無意識にお互いの一致点を見いだそうとする。出身地や年齢はもとより、名前の頭文字まで、どんな些細なことでも一致すれば感電したように心を結びつける。日常的に人が人を叩き、紛争や闘争や戦争が起こり、万人が万人に闘争を続けているような昨今でも、私たちは「もうひとり」を探しているのだろうか。あるいは人間同士の闘争というものは、すべてメダルド子爵の半身同士の闘いと同じなのかもしれない。私たちは「ひとり」でありながら半分であり、かつ、自分の中に半分半分の自分を持っている。人は自分と全く違うものではなく、実はごく似たもの、本質的に同じものに反応し、攻撃しているだけなのかもしれない。大声で「自分と彼らは違う」と言わずにいられないのは、そう言わなければごっちゃになりそうだからだ。その一方で「一体になり、完全になりたい」という欲望が燃えさかっている。」

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