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おおたとしまさ『学校に染まるな!/バカとルールの無限増殖』/webちくま 書評:安藤寿康(行動遺伝学者)「教育の本質を突く名著」

☆mediopos3367  2024.2.5

おおたとしまさ『学校に染まるな!』には
「バカとルールの無限増殖」という副題がついている

なぜ学校ではバカとルールが無限増殖するのか

学校は子どもたちを「ルール」や「べき論」で縛り
思考停止させてしまいかねない装置だからだ
思考停止したときに求めるのがルールであり
ルールに従うばかりだとひとはバカになり
そのバカはさらにルールに従うことになる

学校が不要だというのではないし
それなりの役割があるのはたしかだが
「学校に染まる」と
そうした「無限増殖」に身を置くことになる

本書はたんなる学校批判ではない

おおたとしまさは「たぶん結構、学校が好き」だというものの
学校に行くのが好きだというのではなく
「その時代を生きる人間の内面の映し鏡」だという意味で
学校それ自体が好きなのだという
「楽しいことも、矛盾も、バカバカしいことも、
いろんなものがつまってて、愛おしい」と

「どんな小さな学校にも、人類の叡智が詰まってい」る
「発達段階の近いたくさんの友達に会え」る
「教えたいという本能をもっている先生と、
自覚的ではないにせよ学びたいという本能をもっている
子どもたちが出会う場所でもあ」る
「未来への期待も詰まってい」る・・・が

反面
「子どもたちを現実社会に適応させる、
ある種の洗脳装置の役割も果たしてい」る

そのように学校は
「人類のありとあらゆる思惑が交錯する場所」で
「その時代の人間が人間をどう見ているかってことが
如実に表れちゃうところ」だということで

そんななかで
「「理想の」とか「夢の」とか、
学校に期待しすぎるのもよくない」のではないかという

本書は「三匹の子豚」の話ではじまる
実家を出た三匹の子豚は
「藁の家」「木の家」「レンガの家」をつくる

学校で教えられがちなのは
「レンガの家」をつくった
「三男みたいになりなさい」ということだが
それに染まってはいけない
「藁の家や木の家にもそれぞれ利点があると、
反論できなきゃいけません」という

学校では「正解」という「答え」が用意されていて
それへと導くための知識や考え方が教えられ
多くのばあいその「答え」以外のものは否定される

しかしそういう「正解」を確実に習得することで
いわゆる「受験」や「就職」には極めて有利になる
そして過剰なまでに「現実社会に適応」する

教えられることに従うというのは
じぶんで考えるということではない
答えに向かっていわば思考停止させられるのである
教育のほんらいである「自己教育」ではない

そうしたことをふまえながら
「その時代を生きる人間の内面の映し鏡」として
「学校」から学ぶことはできる

その意味では
ぼくじしん学校「で」学ぶ
とかいうことはほとんどなかったけれど
学校「から」学んだことはずいぶんある

学校という場所で周囲を観察でき
それなりにそこで時間を過ごさざるをえなかったことで
人間とはどういう存在なのか
世の中はどうなっているのかなどについて
学ぶことはできたのではないか

さてwebちくまで「教育の本質を突く名著」ということで
行動遺伝学者の安藤寿康が本書の書評を書いている

「地獄」の入り口にもなるわが国の教育風土であえぐ
子どもたちや教師・親たちに向けられた
希望の指南書であるだけでなく、
どんな深遠な教育理論や膨大なエビデンスで固めた
教育社会学や教育心理学の研究書よりも
教育の現実を生き生きと描いた、
優れた教育学のテキストでもある」という

とくに本書の最終章が
「「理想の学校」なんていらない」
となっていることにも注目している

安藤氏はおおた氏の著書『男子御三家』(2016)で
「今、日本の教育に危機があるとするならば、
その本質とは、子どもたちの学力低下や
教師の質の低下などという問題ではなく、
「学問」や「教育」の本義が
国家レベルで理解されていないことではないか」
という言葉に出会い
「これこそ、日本の教育言説に対する私のもやもや感を
まさに言い当ててくれていた」という

そのことからこの書評が書かれたようだが
「それにしても出来レースである
学校のどこに希望を見出せばいいのか」
「「学校」は相変わらず地獄の入口だった」と嘆くなかで
「おおたさんの目が、学校の中にも希望が
こんなにあることを私に教えてくれた」のだという

ちなみに安藤氏はこう言う
「私とおおたさんのちがいは、おおたさんは学校が好き、
私は苦手だったところだ」

ぼくも学校というところはずいぶん苦手だったが
「学校に染ま」らないでい続けたことで
学校「から」さまざまに学ぶことができていたことを
あらためて思い返すことができた
地獄のなかにいても
地獄にいることでしか学べないことはたくさんある

■おおたとしまさ『学校に染まるな!/バカとルールの無限増殖』
 (ちくまプリマー新書444 筑摩書房 2024/1)
■webちくま 書評:おおたとしまさ『学校に染まるな!/バカとルールの無限増殖』
 安藤寿康(行動遺伝学者)「教育の本質を突く名著」(2024/2/1)

*(おおたとしまさ『学校に染まるな!/バカとルールの無限増殖』〜「はじめに」より)

「童話の「三匹の子豚」を、みなさん知ってますよね。

 子豚の兄弟が、実家を出てそれぞれに家を建てます。長男はごく簡単な藁の家をさくっとつくります。次男は無難に木の家をつくります。三男は何日もかけてとても頑丈なレンガの家をつくります。

 そこに狼がやって来ます。藁の家も木の家も簡単に壊されてしまい、長男と次男は三男の家に逃げ込みます。狼はどうしてもレンガの家を壊すことができず、とうとうあきらめ、三匹は助かりました。……というお話でしたよね。

 この童話の教訓は何でしょう?

 きっと学校では、「だから楽をしないで三男みたいにコツコツと努力を重ねることが大事なんです」と習ったはずです。

 でもちょっと待ってください。

 襲ってきたのが狼だったから、レンガの家が有効だっただけですよね。もし洪水に襲われたら、次男の木の家を箱船か筏にすれば助かります。もし熱波に襲われたら、長男の藁の家で暑さをしのげばいい。三者三様の家があればこそ、さまざまな種類の危機に対応できるのです。

 このお話の本当の教訓は、三匹の子豚がそれぞれの特性を活かして自分のやり方で家を建てるのを黙って見ていたお母さん豚が偉いということです。

 学校では「みんな三男みたいになりなさい」と教えがちです。でも長男や次男は、それに染まっちゃいけないんです。むしろ、藁の家や木の家にもそれぞれ利点があると、反論できなきゃいけません。

 ……本書のタイトルには、そんな想いを込めています。サブタイトルの「バカ」は、自分の頭で考えないひと、くらいの意味です。

 ところで、みなさん、学校は好きですか?

 学校を舞台にいろんな楽しいことを経験できるのが事実である一方で、学校がなければもっと楽しい時間がすごせるのになと思うこともたくさんありますよね。

 宿題とかテストとかがなければいいんだけど……と思うひともいれば、苦手な友達に毎日会うのが嫌だなあと思うひともいるはずです。部活が楽しみで学校に行くひともいれば、部活がつらくて学校が嫌になっているひともいると思います。この先生の授業は好きだけど、あの先生の授業はさぼりたいと感じることもありますよね。

 そういう私は、たぶん結構、学校が好きなんです。

 学校に行くのが好きって意味じゃなくて、学校ってもの自体が好きなんです。その時代を生きる人間の内面の映し鏡だと思うんです。だから観察対象として面白い。楽しいことも、矛盾も、バカバカしいことも、いろんなものがつまってて、愛おしいなって思っちゃうんです。

 それでいろんな理由にかこつけて、いろんな学校を訪問させてもらって、そこで子どもたちがどんな表情をして何を学んでいるのかとか、先生たちがどんな思いで授業準備をしているのかとか、授業以外でも行事や部活が子どもたちの人生にどんな彩りを添えているのかとか、そんなことを描いて本にすることを生業にしています。

 『ルポ名門校』(ちくま新書)とか、いろいろ書いてます。だから、まあまあ学校には詳しいんです。一方で『不登校でも学べる』(集英社新書)という本も書いていて、必ずしも学校に通わなくてもいいじゃんと思っています。

 私だって、自分が子どものころは、「学校行くのめんどくせーなー」って毎日のように思ってましたよ。学校に行くことが特別好きな子だったわけではありません。あくまでも、大人になってから学校という場所をふりかえって、学校って、人間の人間たるゆえんが凝縮されたすごく面白いところだなあと思うようになったということです。

 どんな小さな学校にも、人類の叡智が詰まっています。たとえば、ごくありきたりな公立小学校の図書室に置いてある本をぜんぶ読むことができたら、それだけで世界のどこに行っても通用する、相当な教養が身につくはずです。

 発達段階の近いたくさんの友達に会えます。馬が合う友達にも出会えるでしょうし、どうしても苦手な友達もいるでしょう。人間がたくさんいれば、心ときめくこともあるでしょうし、当然摩擦や衝突で傷つくこともあります。そんなことを通して、集団の中で自分の居場所を見つける経験ができます。

 教えたいという本能をもっている先生と、自覚的ではないにせよ学びたいという本能をもっている子どもたちが出会う場所でもあります。たいていの場合、双方の思いが行き違って、お互いに期待外れに見えてしまったりするわけですけれど、ときどきピタッと、教えたい本能と学びたい本能ががっちり手を結ぶことがあります。そんな瞬間が一回でもあれば、その学校に通っていた価値があったというものです。

 学校には、未来への期待も詰まっています。そこで育った子どもたちが、将来それぞれ立派になって、輝かしい未来の社会を築いていってほしいというビジョンがあります。お金の亡者に見える私立学校の理事長でも、自分の出世しか考えていないように見える教頭先生でも、子どもたちの将来のことは実は結構本気で考えています。それ以上に、つい自分がかわいいだけで(笑)。

 一方で学校は、子どもたちを現実社会に適応させる、ある種の洗脳装置の役割も果たしています。「世の中そんなに甘くない」とか「社会に出たら競争だ」とか、いまの大人たちが信じているいろんな思い込みを子どもたちにも刷り込もうとする力が働くんです。これがくせ者です。場合によっては子どもたちの足枷になります。

 要するに学校って、人類のありとあらゆる思惑が交錯する場所なんです。あるいは、その時代の人間が人間をどう見ているかってことが如実に表れちゃうところなんです。

 もちろん教育には未来を切り拓く力があります。でもそれは、大人たちが望ましいと思うことを子どもに吹き込み、望ましくないと思うことを禁止すればいいというような閉じた話ではありません。大人たちすら想像しなかった子どもたちの潜在能力が花開くような、未規定性に開かれた環境ほど、豊かな教育環境なんだと思います。

 だって、未来なんて誰にも予測できないですよね。しかもいまは先行き不透明な時代、正解がない時代っていわれているんですよ。なのにどうしても大人は、自分たちの予測の範囲で教育を考えてしまう。そういう大人たちこそ、物事には正解があるに違いないという発想から抜けられないひとたちです。

 言い換えると、子どもたちの可能性よりも自分たちの予測を重視してしまうんです。この場合の、大人たちの予測って、実は予測というより不安です。自分の不安に取り憑かれ、子どもの可能性を信じられなかったら、教育なんてできるはずがない! ……と、私は思います。

 「きっとこんな花が咲くんだろうな」「こんな花が咲いたらいいな」と思って毎日適度な水をあげ肥料をあげ、大事に大事に育ててみたら、思いもよらない花が咲いた!みたいなサプライズが、教育の醍醐味であり、学校はそのための花壇みたいなものなんだと思います。

 チューリップばっかりとかパンジーばっかりの花壇より、いろんな花が咲いている花壇が私は好きです。一般的には雑草と呼ばれるような草がたくましく生きていて、いろんなムシも遊びに来る花壇はもっと好きです。「ここに完璧に管理された理想的な花壇があります!」ってがっちりレンガか何かで囲われて隅々まで意図的に管理された花壇より、え、これ、花壇なの?ってくらいに、さりげなくなんとなく草花が囲われているくらいの花壇が好きです。個人的には。

 あ、そうそう。いま思い出しました。私、もともと学校の先生になりたかったんです。でもいろいろあって、先生にはならないで、学校を外から観察する仕事をしています。

 自分の学校をつくりたいなと妄想を膨らませていたこともありました。でも、いまはその妄想はやめました。紙幅があれば、どうして心変わりしたのかについても述べたいと思います。予告的に言っちゃうと、「理想の」とか「夢の」とか、学校に期待しすぎるのもよくないなって思ったからです。

 この本で私は、学校関係者ではないけど学校に詳しいひとという立場から、学校に通う意味だとか、学校で味わうさまざまなストレスへの対処法だとか、学校の選び方だとか、学校についてあらゆる角度から思いつくままに語っていきます。

 それなりに多くの取材経験にもとづきながらも、そもそもとるべき責任がないという意味での無責任な立場を利用して、教育の実践者や研究者にはおそらく書けないであろう少々過激なことも、本音で書きます。

 普段は大人向けに勇み足を諫めるように書いている内容を、今回は中高生向けに書きます。

 大人たちからのおせっかいに対する自己防衛のお役に立てれば何よりです。」

*(おおたとしまさ『学校に染まるな!/バカとルールの無限増殖』〜「おわりに」より)

「本書はこれまでの私の著書約八〇冊のエッセンスを極限まで煮詰めた一冊といえます。

 第一章では、学校の勉強の意味を論じました。教科書を人類の叡智のフリーズドライに、先生をそれにお湯をかけるひとに、それぞれ例えました。

 第二章では、「これからの時代」をどうとらえたらいいか、を提案してみました。要するに、なんとかなるから焦りなさんな、という話でした。

 第三章では、競争社会がいかにデタラメであるかを暴きました。どうせデタラメなので、落ち込んだり有頂天になったりしないように、気をつけてください。

 第四章では、民主主義社会の市民の視点から学校を見てみました。ちょっと難しかったと思いますけど、民主主義は多数決じゃないということだけは覚えておいてください。

 第五章では、学校選びという状況を想定しつつ、学校の価値について語りました。偏差値を脇に置いて学校の魅力を語れるひとが増えてほしいと思います。

 第六章では、人生においては無駄こそ味わいだという話をしました。学校というシステムに染まってしまうと、つい忘れてしまう価値観です。

 第七章では、学校というものを生み出した、人間の業の深さについて述べました。人間は愚かだからこそ、愛おしい。学校も同じです。ダメでいい、ダメがいい。

 ぜんぶに賛同してはもらえないでしょうけれど、この本を読むまえとあとで、学校、社会、そして人生に対するとらえかたがちょっとでも変わったら、うれしいです。」

*(webちくま 書評:安藤寿康「教育の本質を突く名著」より)

「 これはすごい著作だ。「地獄」の入り口にもなるわが国の教育風土であえぐ子どもたちや教師・親たちに向けられた希望の指南書であるだけでなく、どんな深遠な教育理論や膨大なエビデンスで固めた教育社会学や教育心理学の研究書よりも教育の現実を生き生きと描いた、優れた教育学のテキストでもある。
 教育の渦中にいる人たちへの希望の指南書であるとは、こうすれば理想の学習や教育の仕方が手に入るという意味ではない。なにしろ最終章は「「理想の学校」なんていらない」だ。

 より優秀でなければならない、そのために国民に平等に与えられた教科内容に向けて、子どもたちを勤勉と努力の無間地獄に追い立て、「アクティヴラーニング」「個別最適化」「非認知能力」と次々に登場するはやりの呪文に縛られて教育することが正しい学校の在り方だという考え方に染まっている今の教育界。その先に競争と選抜をちらつかされ、その逆らい難い、しかししょせん一過的な「正しさ」に思考停止させられているすべての教育当事者(子どもだけでなく教師や親にも)に、そんな学校に染まるなと言い切っている。それも力まずに。それは決して学校や勉強を否定しているのではない。むしろ逆だ。学校や勉強が本来作り出しているホンモノの経験から目をそらすなと言っているのだ。

 こう言い切れる根拠はどこにあるか。それが名門校から通信制、無料塾や森のようちえんまで教育現場をその目で見とどけてきたおおたさんの経験値だ。教育格差、学力格差の危機が叫ばれ、いじめや不埒な教師、学校の隠蔽体質がメディアで騒がれ、教育現場は荒廃しきっているかのように印象操作される中、おおたさんは、そんな表面的な「危機」の裏に、ホンモノの教育が日本各地でちゃんと実現されていることを生き生きとルポしてきた。しかも、教育理論や教育史、社会学、心理学、脳科学などの成果をふまえてそれを論証している。おおたさんは単なる教育ジャーナリストではなく、卓越した教育研究者なのだ。

 私の専門である行動遺伝学の知見もちゃんと位置づけてくれている。それは学力の個人差が遺伝と家庭環境でほぼ八割がた説明されるという頑健な知見である。そこから導かれる結論が「学校は出来レース」だ。おおたさんはこのことを、私の著作を読んで知ったというよりも、自らの経験からもともと気づいていて、それが科学的エビデンスと合致することで、確信を得たのだと思う。

 知識の由来というのは元来そういうものだ。知識のないところに外側から植えつけるのではなく、すでに漠然とおのずから気づいていたものに知識が乗ってくるのである。それがソクラテスのいう「想起」であり、最新脳科学でいう「予測」だ。

 私は『男子御三家』(2016、中公新書ラクレ)の次の一節に出会ったとき、それを経験した。「今、日本の教育に危機があるとするならば、その本質とは、子どもたちの学力低下や教師の質の低下などという問題ではなく、「学問」や「教育」の本義が国家レベルで理解されていないことではないか」。これこそ、日本の教育言説に対する私のもやもや感をまさに言い当ててくれていた。

 私の言葉で言えば、学問の本義とはホンモノの世界について知ること、教育の本義とは世界に関するホンモノの知識に気づく経験を手助けすることだ。ここがつながれば人はちゃんと生きていける。

 それにしても出来レースである学校のどこに希望を見出せばいいのか。私はここで希望の根拠を見出せなかったから、長らく行動遺伝学の成果を世に公表することへのためらいがあった。それがひとまず消えたのは、歳を重ねて、この社会を支える知識と労働が、誠意と喜びを伴った無数の人たちによって日々営まれていることに気づいてからだった。しかし「学校」は相変わらず地獄の入口だった。私とおおたさんのちがいは、おおたさんは学校が好き、私は苦手だったところだ。

 そのおおたさんの目が、学校の中にも希望がこんなにあることを私に教えてくれた。おおた教育学のひとまずの集大成と自ら語る本書に描かれた教育の希望を多くの人に知ってもらいたい。」

□おおたとしまさ『学校に染まるな!』【目次】

第一章 なぜ勉強しなくちゃいけないの?
たくさんの教科を学ぶ理由/同じことを学んでも違いが出るのが当たり前/大人のルサンチマンにご用心/教科書はフリーズドライ、先生はお湯/勉強すると目が良くなる!?/学校は「学び」をつまらなくする装置/可能性に蓋をする一〇〇点満点のテスト/先生が自由になれば社会が元気になる

第二章 時代は変わってもひとは変わらない
IT系人材から失業する?/人類の進化を追体験する/時代とともに変わったのは稼ぎ方/正解を求めずにはいられない大人たち/「教育」と「人材育成」は似て非なるもの/「生きる力」と「生きるためのスキル」は違う/新しいものがいいとは限らない

第三章 出来レースだらけの競争社会
「親ガチャ」は親を非難する言葉じゃない/教育が階層社会を温存するカラクリ/家庭や学校の影響は意外と小さい/学校を舞台にした出来レース/教育格差を緩めるか、学歴格差を緩めるか?/私たちは何を競わされているのか?/自分にはない能力をもつひととチームになる力/前提が異なる相手とのコミュニケーションの作法/せこい損得勘定に染まるな!

第四章 なぜ大人は髪型や服装にうるさいのか?
バカとルールの無限増殖ループ/戦争ができる国のつくり方/ブラック校則を変えるのは誰の責任か?/髪型や服装にうるさい大人たちの本音/中高生の自由を制限する偏差値差別/自由や自己肯定感の格差を許すな/シルバー民主主義は教育の敗北/政治的中立性を巡る本末転倒/批判が歓迎される社会を目指す

第五章 「いい学校」より「面白い学校」を探せ
学校の偏差値は簡単に操作できる/偏差値はラーメン屋さんの行列と同じ/学校選びを通して自分を知る/シラバスよりもハビトゥス/ラーメン屋さんはにおいで直感的に選べ/受験の〝勝ち組〞になる三つの条件/努力が報われるかどうかなんてどうでもいい

第六章 青春の舞台としての学校
青春体験がないと頑張れない/知り合いと親友のあいだにあるグラデーション/生徒の試行錯誤か、勝利至上主義か?/文化祭と運動会に見る自由と規律のバランス/生徒会活動で体感する一般意志/告白は海外では珍しい風習/愛される側から愛する側への大革命/教室の中に閉ざされない

第七章 「理想の学校」なんていらない
「しぜん」と「じねん」の違いとは?/ロゴスはピュシスに蓋をする/傷は問いを生む/後悔する技術/ぼーっとする勇気/学校は問いを授かるところ/「足し算」よりも「引き算」/学校は、ダメでいい、ダメがいい

○おおたとしまさ
育児・教育ジャーナリスト。1973年東京生まれ。麻布中学・高校卒業。東京外国語大学英米語学科中退。上智大学英語学科卒業。株式会社リクルートで雑誌編集に携わる。心理カウンセラーとしての活動経験、中高の教員免許、私立小学校での教員経験もある。
長男誕生後、「こどもが"パパ〜!"っていつでも抱きついてくれる期間なんてほんの数年。今、子どもと一緒にいられなかったら一生後悔する」と、2005年に独立後、育児誌、教育誌、妊婦誌、旅行誌などのデスク・監修を務め、現在は育児・教育・夫婦のパートナーシップなどに関する書籍やコラム執筆、講演活動を行う。ラジオレギュラー出演など、各種メディアへの寄稿、コメント掲載、出演も多数。

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