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小林忠(監修)『鈴木春信大全』

☆mediopos3467  2024.5.15

浮世絵をはじめとした日本文化を英語で国際的に紹介した
イサム・ノグチの父・野口米次郎(一八七五〜一九四七)は
鈴木春信を筆頭とした『六大浮世絵師』と題する
日本語版の著書を刊行したが
(六大浮世絵師とは鈴木春信のほかに鳥居清長・喜多川歌麿・
東洲斎写楽・葛飾北斎・歌川広重)

昭和四年(一九二九)には「限定私家版」として
『鈴木春信』を出版し

そのなかで
〈若し春信の『雪中相合傘』がなかったならば、
私はわが浮世絵がどんなに寂寞なものであろうとさへ
思ふことがある。〉と述べているそうだ

昨年の六月に小林忠の監修による
『鈴木春信大全』が刊行されているが
そのなかで小林は上記の言葉を借りて

〈もし春信という存在が現れていなかったならば、
浮世絵の歴史はどんなに寂しいものだったろうと思う〉と
本書の刊行にあたっての思いを熱く語っている

浮世絵を創始したのは菱川師宣(?〜一六九四)だが
多色摺木版画を可能にした
「錦絵」の創始者といえば鈴木春信である

しかし鈴木春信についての肝腎なことは
ほとんどわかっていないという

「生まれた年は享保十年かと推定されている」が
「春信の生没年を、一七二五?〜一七七〇と記す通説は、
かなりおぼつかないといわざるをえない」ようだ

大田南畝の見聞雑録『半日閑話』によれば
「鈴木春信の得意絶頂の時期」は
亡くなったとされる明和七年までのわずか五年間・・・

浮世絵といえば
役者絵と美人絵という二大ジャンルが中心だが
鈴木春信のばあい
役者絵には「初期の紅摺絵期に関わっただけで、
錦絵期にはこの方面への筆を絶っているし、
美人画も本来主流とすべき遊里風俗の作例がかえって少なく、
家庭内の日常生活や行楽の様子を描くことのほうに
積極的な関心がより多く向かっている。」という

小林忠監修『鈴木春信大全』は
「浮世絵らしからぬ浮世絵師・鈴木春信の画業を、
その頂点に達した成熟期、すなわち錦絵期の作品のみを
できるだけ多く美しい図版で紹介」しようと企画されていて
掲載されている一六一の浮世絵の大多数は原寸サイズ

それが以下の六つの章に分けて紹介されている

 第一章「絵暦と摺物」
  浮世絵師としてブレイクした時期の代表作
 第二章「見立絵」
  和歌や古典文学、歴史上の人物などを当世美人に見立てた作品
 第三章「恋する男女
  おしゃれな若者と振袖姿の娘たち
 第四章「市井風俗」
  花見、月見、舟遊びなど江戸の庶民の四季折々の光景。
 第五章「家族の情景」
  母と子、兄姉と幼い弟妹など、なごやかで幸せ感がいっぱい!
 第六章「遊女と町娘
  吉原の遊女と、茶屋などの看板娘を描いた美人画の数々

さて本書の解説となっている
小林忠「錦江創始者の浮世絵師 鈴木春信」の概略のいくつかは
以下に引用してあるが
その最後に喜多川歌麿の興味深い話が書かれている

歌麿には〈故人鈴木春信図〉と注記された《男女虚無僧》
そして「本柳屋お藤から難波屋おきたへと、
それぞれ一巻の巻物を手渡す錦絵がある」が

それは「春信から歌麿へ、
浮世絵美人画の奥義が伝授されたと、
歌麿みずからが表明したものにほかならないだろう」という

あの「自力画師」と自称していたという歌麿が
鈴木春信から奥義が伝授されたとしている
それほどに鈴木春信は特別な存在なのである

ちなみに浮世絵師のなかでは
もっとも心ひかれる存在である鈴木春信の
『鈴木春信大全』が刊行されたことを知り
入手したいと思っていたものの
高価すぎるため半ば断念していたのだが

先日地元の図書館の蔵書に加えられていたことを知り
やっと期間限定ではあるが手にすることができ
鈴木春信の世界を堪能できることになった

図書館の担当者は
本書の監修者の弟子筋に当たる方をご存じだとのことだが
(小林忠先生は云々・・・と話されてました)
蔵書に加えられてから借り出されるのははじめてのようで
書庫に収められているずいぶん大きなサイズの本書を
大切そうに抱えてこられたのが印象的だった

■小林忠(監修)『鈴木春信大全』(小学館 2023/6)

**(小林忠「錦絵創始者の浮世絵師 鈴木春信」
   〜「浮世絵における春信の存在意義と史的位置」より)

*「彫刻家イサム・ノグチの父、ヨネ・ノグチこと野口米次郎(一八七五〜一九四七)は、英語で詩作を発表した詩人であり、浮世絵をはじめとする日本文化を英語によって国際的に紹介する伝道者であった。その彼が大正八年(一九一九年)に『六大浮世絵師』と題する日本語版の著書を刊行(岩波書店刊)、以来最近まで、鈴木春信を筆頭として鳥居清長(一七五二〜一八一五)、喜多川歌麿(?〜一八〇六)、東洲斎写楽(生没年不詳)、葛飾北斎(一七六〇〜一八四九)、歌川広重(一七九七〜一八五六)の六人を、浮世絵を代表する絵師として重んじ、特別扱いするようになる。その野口米次郎が「限定私家版」として昭和四年(一九二九)に出版した『鈴木春信』の中で、〈若し春信の『雪中相合傘』がなかったならば、私はわが浮世絵がどんなに寂寞なものであろうとさへ思ふことがある。〉と述べている。まことにそのとおりだが、私ならばその言葉を借りて〈もし春信という存在が現れていなかったならば、浮世絵の歴史はどんなに寂しいものだったろうと思う〉と言いたい。

 鈴木春信は、浮世絵師のなかでも相当に風変わりな存在である。もちろん彼にも、初期には歌舞伎の役者絵があり、盛期に入れば、遊女や芸者を主役として活躍させた風俗画もあり、男女の閨房の秘戯を直接に取り上げた春画までも描いてはいる。ところが、そうした浮世絵本来の題材を扱っても、よくありがちな誇大な表情や下品で粗放な姿態などの誇張が少しもなく、つねに優雅で明るく、朗らかな雰囲気が画面を満たしているのである。また、春信の活躍時期は幕臣・田沼意次が幕閣で実験を握った、いわゆる田沼時代(一七六七〜八六年頃)の高揚期にあたる。浪漫的で開放的な気分が支配していた当時にあっても、多くの人にとっては見果てぬ夢でしかなかったであろう恋の喜びをうたいあげるかと思うと、母と子、姉や兄と弟妹などがほほえましく暮らす家庭生活に取材して庶民の営みをめでたく言祝ぐといった具合に、浮世絵に対する一般の人の好色や軽躁の表現を期待する先入観、固定観念を大きく裏切ってみせるのである。」

*「このような浮世絵らしからぬ浮世絵師・鈴木春信の画業を、その頂点に達した成熟期、すなわち錦絵期の作品のみをできるだけ多く美しい図版で紹介したいものと、この贅沢な画集を企画した。彼は、木版画の色摺り技術が飛躍的に進歩し錦絵という多色摺版画が誕生した浮世絵界の文字どおり「脱皮」の瞬間に、幸いにして立ち会いえた、まさに画期的な存在であった。」

**(小林忠「錦絵創始者の浮世絵師 鈴木春信」
   〜「菱川師宣による浮世絵の誕生」より)

*「浮世絵の開祖・菱川師宣(?〜一六九四)は江戸湾に面した阿波国保田村(現在の千葉県鋸南町保田)に、縫箔師の長男として生まれた。」

*「房州から穢土の城下に出て来た師宣は、若い未熟なときより絵画に心を寄せ、日本の伝統的な画風を広く学び、みずからも工夫して独自の画風を確立、しだいに浮世絵師としての評判を得るようになる。」

*「浮世絵の誕生とその普及、流行は、菱川師宣とう巨星によって成し遂げられたことを、まず始めに確認しておきたい。」

**(小林忠「錦絵創始者の浮世絵師 鈴木春信」
   〜「初期浮世絵の展開」より)

*「師宣による版画と肉筆画による江戸の風俗表現は、浮世絵界の後継者たちによって二筋の道に分かれた。

 肉筆画は、版画を描かず肉筆専科の絵師たちによって受け継がれた。海月堂安渡度(生没年不詳)とその門人たちによる海月堂派の立美人図、および宮川長春(一六八二〜一七五二)と宮川派による多様な風俗描写などに分かれていったのであった。」

*「役者絵は、元禄年間から享保年間初めにかけて、鳥井清信(一六六四〜一七二九)、鳥居清倍(生没年不詳)の二人が、初代市川團十郎(一六六〇〜一七〇四)や二代團十郎(一六八八〜一七五八)らによる豪快な荒事の所作を伝え、また女形役者の豊満で優美な姿を活写して、役者絵専科の鳥居派を確立した。彼らに続いて鳥居家三代目の鳥居清満(一七三五〜八五)は繊細な画風で役者絵のスタイルを一変し、人気を高めた。春信も初期には清満の画風に倣った役者絵を描いて、浮世絵師の仲間入りをしている。

 大都市・江戸の浮世の風俗描写は、奥村政信(一六八六〜一七六四)と西村重長(?〜一七五六)が享保以降の瀟洒で洗練を好む時代の空気を反映して人物描写の繊細化を進めた。重長の弟子と伝えられる石川豊信(一七一一〜八五)、鳥居派ながら美人風俗も巧みにした鳥居清広(生没年不詳)は、巷の生活風俗に取材する叙情的な表現を巧みにして、春信の登場を準備する土壌を培っていた。」

**(小林忠「錦絵創始者の浮世絵師 鈴木春信」
   〜「鈴木春信の履歴に関するわずかな事実」より)

*「寛政年間(一七八九〜一八〇一)に初めに大田南畝が『浮世絵類考』という浮世絵師の列伝を初めて編纂するまでは。浮世絵師たちの消息をことさら注意深く記しとどめてくれるような機会は、ほとんどなかった。

 錦絵の創始者として浮世絵史上画期的な位置に座を占め、美しい版画作品を数多くの発表したこの偉大な浮世絵師。鈴木春信についても、肝腎なことは驚くほどわかっていないのである。」

*「まず、春信の死を伝える記事を、大田南畝の見聞雑録『半日閑話』(成立年不詳)に

  鈴木春信死す (明和七年六月)十五日大和絵師鈴木春信死す。此人浮世絵に妙を得たり。今の錦絵といふものは此人を祖とす。明和二年乙酉の頃よりして其名高し、(以下略)

(・・・)

 六月十四日ないし十五日(十四日と十五日の間の夜半の死だったか)の死は、にわかの死であったようだ。

(・・・)

 生まれた年は享保十年かと推定されている。春信の生没年を、一七二五?〜一七七〇と記す通説は、かなりおぼつかないといわざるをえないのが実情なのである。」

「鈴木氏の本姓は穂積、通称を次郎兵衛あるいは次兵衛と称し、恩古人の号を名のった。大田南畝がいうように明和二年のころからその名が聞こえたというのは、その年に流行した絵暦制作の熱狂が多色摺技法を開発、錦絵を草創して斯界の第一人者となるその間の事情を明かすもので、同七年に没するまでのわずか五年間が、浮世絵師・鈴木春信の得意絶頂の時期であった。」

**(小林忠「錦絵創始者の浮世絵師 鈴木春信」
   〜「浮世絵界への登場」より)

*「春信の浮世絵へのデビューは、宝暦十年(一七六〇)のころと推定されている。」

「浮世絵界での春信の最初期の活躍は、ほかの多くの浮世絵師の場合と同じく、むしろ役者絵の作画によって道が開かれていたとすらいえるほどである。」

**(小林忠「錦絵創始者の浮世絵師 鈴木春信」
   〜「絵暦交換会の流行」より)

*「錦絵という多色摺木版画を可能にしたのは、明和二年に旗本の大久保甚四郎忠舒(俳号・巨川、一七二二〜七七)と阿倍八之丞正寛(俳号・莎雞、一七二四〜七八)が中心となって組を分け、大小こと絵暦の交換会を開いて優劣を競い合ったことに由来する。

 大小とは、その年の大の月(ひと月が三十日の月)と小の月(二十九日の月)の順を明示した一枚摺りの簡略な暦のことで、このとき流行った大小は絵入りの版画摺物で、題材の機知的な妙味と色摺版画の出来映えが評判の対象となったようだ。将軍直参の殿様として重んじられた大久保巨川と阿倍莎雞のほかに、飯田町(現在の東京都千代田区)の薬屋三右衛門こと小松百亀(別号は小松軒、一七二〇〜九三)など豊かな町人も参加する、身分の垣根を超えた俳諧趣味の好事家の集まりによるものだった。」

**(小林忠「錦絵創始者の浮世絵師 鈴木春信」
   〜「好事家と技術者との協力」より)

*「春信の絵暦期の作例は、第一章の前半に収めた作品群である。」

*例:《夕立》

「《夕立》には(・・・)画面の右下に、小さく、しかしくっきりと鮮やかに〈画工 鈴木春信 彫工 遠藤五録 摺工 湯本幸枝〉と、この版画を実質的につくった技術者三人の名前が明記されている。

 そもそも商品としての浮世絵版画は、版元の企画の下に、絵師・彫師・摺師の三者がそれぞれの技術を提供して成る共同制作の所産のものだが、絵暦という私製版画の制作にあたっては、出資者の好事家は版元の役割を担当したものとして理解される。彼らは、交換会での成功を期待して好みの絵師と工人を選び、彼らに絵画表現の巧みと木版色摺の技術の粋を尽くさせたのである。」

**(小林忠「錦絵創始者の浮世絵師 鈴木春信」
   〜「昔を今に見立てる面白さ」より)

*「春信に多い見立絵には、有名な故事や伝説、物語などで親しまれている人物や福神を当世風の若い男女の姿に変え、原典の意味を重ね合わせたその風俗描写に興味を倍化させる類のものと、画面上に古代・中世の和歌(時には漢詩や俳句の場合もある)を掲げ、その歌意や詩趣に情調を通わせて当世風俗に翻案を試みる類の、二種類に大別される。

*前者の例:《見立菊慈童》

*後者の例:《若水を汲む男女(春を得て)》

**(小林忠「錦絵創始者の浮世絵師 鈴木春信」
   〜「春信の描いた「夢」の世界」より)

*「浮世絵が、その発生の当初から、悪所と呼ばれた芝居町と遊里におもな題材を取り、役者と遊女の魅惑的な姿を描いて人々の好尚に迎えられたことは、今さらこと新しく言い立てるまでもない。役者絵と美人画の二大ジャンルが、浮世絵の大黒柱として据え置かれたことは、その歴史を通じてほぼ一貫していた。

 ところが、明和年間の浮世絵界を風靡した春信の場合だけは、その主題傾向がいささか変わっているのである。先述のとおり彼の場合、役者絵は初期の紅摺絵期に関わっただけで、錦絵期にはこの方面への筆を絶っているし、美人画も本来主流とすべき遊里風俗の作例がかえって少なく、家庭内の日常生活や行楽の様子を描くことのほうに積極的な関心がより多く向かっている。」

*例:《見立俳句 宗瑞(これはこれは)》

*「実現しにくい理想の情景を、あたかも甘美な夢を見るように描く春信画の虚構性は、男女の愛の交渉を伝える作品に、より際立って示される。

*例:《雪中相合傘》

*「歌麿に、〈故人鈴木春信図〉とわざわざ注記した《男女虚無僧》があり、また、母親の役に擬せられた笠森お仙から娘役としての高島おひさへ。もう一図、本柳屋お藤から難波屋おきたへと、それぞれ一巻の巻物を手渡す錦絵がある。おひさとおきたが歌麿のよく描いた寛政期の美女たちと知れば、嫁入りの際に手渡される秘戯画になぞらえて、春信から歌麿へ、浮世絵美人画の奥義が伝授されたと、歌麿みずからが表明したものにほかならないだろう。あの「自力画師」と自称して尊大な自信家だった歌麿が、春信との関わりを強調して江戸美人画の奔流に連なる自覚を明白に示していることあは興味深い。」

*例:喜多川歌麿《女虚無僧》

*例:喜多川歌麿《お仙とおひさ》

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