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「神秘学遊戯団」は1991年スタート。シュタイナーのほか、諸テーマを横断。 HP ht…

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「神秘学遊戯団」は1991年スタート。シュタイナーのほか、諸テーマを横断。 HP https://r5.quicca.com/~steiner/novalisnova/    Facebook https://www.facebook.com/kazenotopos

マガジン

  • 神秘学ポエジー【風遊戯】photopos

    神秘学的な内容を写真と言葉で、「遊戯」していくシリーズ。

  • 神秘学ポエジー【風遊戯】mediopos

    本を中心としたメディアを神秘学的な視点で読みながら「遊戯」していくシリーズ。

最近の記事

じぶんという謎を味わうために

☆photopos-3522  2024.4.30 たとえ どんな大きな声で 求められても どんな強い手で たしなめられても 白にも 黒にも 灰色にも 染まることなく 冷たすぎも 熱すぎもしないように ゆっくりと たしかな熱を加えながら ひとから 認められるためにでも あらかじめ決められた結果を 求めるためにでもなく じぶんという謎を しずかな足どりで 味わってゆけますように *愛媛県総合運動公園にて

    • 堀江敏幸『バン・マリーへの手紙』

      ☆mediopos3452  2024.4.30 堀江敏幸に「バン・マリーへの手紙」という 連作のエッセイがある 二〇年前の二〇〇四年四月に「図書」に掲載されはじめ 連載となったものが二〇〇七年に刊行されている 「バン・マリー」は人名ではなく フランス語で「湯煎(ユセン)」のこと 「鍋で湯を沸かし、中に小さな鍋を浮かべて ゆるやかな温度で調理したり、 ソースやポタージュを保温したりすること」である 「バン・マリー」の語源は一節によれば このユセンが考案された一四世紀ご

      • わたしは記憶である

        ☆photopos-3521  2024.4.29 わたしは 記憶である 見聞きし 体験したこと すべてが わたしとなっている わたしの記憶は このわたしを超えている あるいは わたしとなるまえの わたしの記憶が 重ね合わされながら わたしとなっている 記憶は 決して失われないが 忘れることはできる 忘れなければ 生きられないことがあり 思い出せないために 生きづらくなることもある 死は 記憶を妨げない 生が ほんとうの記憶を 妨げはしないように わたしは

        • 三村尚央『記憶と人文学』/中村昇『ベルクソン=時間と空間の哲学』/ベルクソン『物質と記憶』/沢耕太郎『写真とことば』/ロラン・バルト『明るい部屋』/ソンタグ『写真論』/ベンヤミン『写真小史』/ゼーバルト『アウステルリッツ』

          ☆mediopos3451  2024.4.29 三村尚央『記憶と人文学』第一章 「写真と記憶、記憶の写真」から すでに本書は吉田健一『時間』とあわせ mediopos2397(2021.6.9)でとりあげているが 今回は写真との関係における「記憶」について ベルクソンをガイドに・・・ 「写真は一体何を写し出しているのか?」 写真が誕生して以来 繰り返されてきている問いである 一葉の写真には 「被写体」「撮影者」「鑑賞者」が 多様な関係で結ばれている たとえば過去

        じぶんという謎を味わうために

        • 堀江敏幸『バン・マリーへの手紙』

        • わたしは記憶である

        • 三村尚央『記憶と人文学』/中村昇『ベルクソン=時間と空間の哲学』/ベルクソン『物質と記憶』/沢耕太郎『写真とことば』/ロラン・バルト『明るい部屋』/ソンタグ『写真論』/ベンヤミン『写真小史』/ゼーバルト『アウステルリッツ』

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        • 神秘学ポエジー【風遊戯】photopos
          1,215本
        • 神秘学ポエジー【風遊戯】mediopos
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        記事

          いないいないばあ

          ☆photopos-3520  2024.4.28 ある/いる といえるのは ない/いない といえるからだ ない/いない といえるのは ある/いる といえるからだ ある と ない いないいないばあ なる といえるのは ならない といえるからだ ならない といえるのは なる といえるからだ なる と ならない なるようになり ならないようにはならない ぐうぜんが ほんとうは ぐうぜんではないように *愛媛県久万高原町・古岩屋にて

          いないいないばあ

          『ミリンダ王の問い インドとギリシアの対決』/『世界哲学史1』/『世界哲学史8』/納富信留『世界哲学のすすめ』/山川偉也『パルメニデス 』

          ☆mediopos3450  2024.4.28 『ミリンダ王の問い』という バクトリア周辺のギリシア王のミリンダと 仏教僧ナーガセーナとの対話が残されていて 「ミリンダ・パンハ」(パーリ語)と呼ばれる 仏教の外典となっている ギリシア人が最初にインドに赴いたのは 前五〇〇年アレクサンドロスの遠征によってだが それから二〇〇年近く経った前二世紀半ばに 上記の対話が行われたとされ テクストの原型が成立したのは 前一世紀前半から半ば頃と考えられている ミリンダ王は 「「あ

          『ミリンダ王の問い インドとギリシアの対決』/『世界哲学史1』/『世界哲学史8』/納富信留『世界哲学のすすめ』/山川偉也『パルメニデス 』

          空即是色

          ☆photopos-3519  2024.4.27 水の流れか 空(そら)ゆく雲か この世を 生きる はかなさを 空(くう)と みたとて なんとしょう 空なる この世を 味わえば 愛も 情けも 香りたつ 白だ 黒だと 野暮などやめて 遊んで 生きて 色となす *愛媛県総合運動公園にて

          空即是色

          田中純『イメージの記憶』・『デヴィッド・ボウイ 無を歌った男』/唐木順三『中世の文學』/稲垣足穂『一千一秒物語』/九鬼周造「小唄のレコード」/世阿弥「遊楽修道風見」

          ☆mediopos3449  2024.4.27 田中純『イメージの記憶』第6章 「無の色気————デヴィッド・ボウイから世阿弥へ」 今回とりあげるのは 章題となっている「無の色気」についてである それは「色即是空 空即是色」の 「空即是色」ゆえの 「無」の香りだともいえるだろうか・・・ 田中純は『デヴィッド・ボウイ————無を歌った男』 というボウイの作品論を上梓しているが その副題の英訳は The Man Who Sang Nothing 「何も歌わなかった男」と

          田中純『イメージの記憶』・『デヴィッド・ボウイ 無を歌った男』/唐木順三『中世の文學』/稲垣足穂『一千一秒物語』/九鬼周造「小唄のレコード」/世阿弥「遊楽修道風見」

          名を超えて旅する

          ☆photopos-3518  2024.4.26 名のなきまま 生まれ 名を得て 名を生きる 名の 体をあらわさぬときは 名を変えるのもひとつ 名を売り 名を得て 名をあげ 名に恥じぬよう 名を残すのもまたひとつ 名に縛られ 名に泣き また 有名無実と化すならば 名を捨てて実を取るのも またひとつ いずれにせよ 果てには 名は失われる 魂は 名なき者として されど 名を超えた者として 旅を続ける者なればなり *愛媛県総合運動公園にて

          名を超えて旅する

          吉岡乾「ゲは言語学のゲ⑩花は他の名でも同じく香れど」(群像)/「歴代の子供の名前ランキング!令和の傾向と昭和・平成との比較」 (テテトコ)/2023年赤ちゃん命名・名前ランキング(アカチャンホンポ)

          ☆mediopos3448  2024.4.26 子供の名前に 「キラキラネーム」が増えている 「キラキラネーム」とは 「伝統的でない当て字、外国人名、創作物の 登場人物名などを用いた奇抜な名前の総称」 (Wikipedia)のこと 2000年代には「DQNネーム(ドキュンネーム)」と呼ばれ 2010年代以降になると 「キラキラネーム」と呼ばれるようになった 昭和生まれの人間としては ずいぶんと違和感のある名前も多いが 時代とともに名前の傾向は変わっていて おそらく

          吉岡乾「ゲは言語学のゲ⑩花は他の名でも同じく香れど」(群像)/「歴代の子供の名前ランキング!令和の傾向と昭和・平成との比較」 (テテトコ)/2023年赤ちゃん命名・名前ランキング(アカチャンホンポ)

          わたしをひらき せかいをひらく

          ☆photopos-3517  2024.4.25 水とともに流れ 花とともに咲き 鳥とともに歌うとき わたしは 水であり 花であり 鳥である わたしが せかいで なくなるのは せかいからはなれ それを指さすときだ わたしのことばが せかいのことばで なくなるのは せかいを名づけ 閉じこめてしまうときだ わたしは わたしでありながらも せかいへと 還っていかねばならない わたしがひらかれることで せかいがともにひらかれるために *愛媛県総合運動公園にて

          わたしをひらき せかいをひらく

          オウエン・バーフィールド『意識の進化と言語の起源』『言語と意味のとの出会い』

          ☆mediopos3447  2024.4.25 オウエン・バーフィールド (1899.11.9-1997.12.14)は ルドルフ・シュタイナーの影響を受け シュタイナーハウスでの講義を行ったり シュタイナー出版から著作を刊行したりしているが とくに日本ではおそらくほとんど知られていない (一般には『英語のなかの歴史』(中公文庫/1980)が 訳されているくらいだ) 第一次大戦に参加した後 オックスフォード大学で法律を学んだ後 一九五七年まで弁護士を開業しながら著作を

          オウエン・バーフィールド『意識の進化と言語の起源』『言語と意味のとの出会い』

          世界はいつもあたらしい

          ☆photopos-3516  2024.4.24 世界は いつも あたらしい なにもかもが いま生まれている 時間は 垂直の深みから 生まれてくる けれど世界を 測ろうとすると ほんとうの時間は 生まれなくなり 自由をなくしてしまう わたしは いつも あたらしい わたしは 時間を生きている 過去と未来の 奴隷になると いつもあたらしいはずの時間を 生きることができなくなる 自由をなくして *愛媛県久万高原町・面河渓にて

          世界はいつもあたらしい

          金森修『ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか』/平井靖史『世界は時間でできている ベルクソン時間哲学入門』/ベルクソン『時間と自由』『思考と動き』

          ☆mediopos3446  2024.4.24 わたしたちは「本当は自由」なのに 時間を空間化してしまうことで 「純粋持続」としての時間を生きられなくなっている 時間が空間化されると 時間は計測される「もの」となり わたしたちは「自分に対して外在的に生き」 「ほとんど行動させられている」ようになる しかも過去からくる記憶に縛られ 「いまこの瞬間を見ているようで、 実はいまままで何度も見てきたもののようにそれを見、 いままで何度も聴いてきたもののように、 それを聴いて

          金森修『ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか』/平井靖史『世界は時間でできている ベルクソン時間哲学入門』/ベルクソン『時間と自由』『思考と動き』

          忘れる恵み

          ☆photopos-3515  2024.4.23 忘れなければ 得ることのできない あらたな恵みがある 器を空にしなければ そこにはなにも 注ぎこむことができないように みずから考えるためには 記憶という檻から 自由にならなければならないように 忘れることは 深みを流れる智慧の水を 汲み出すこと あらたに生まれてくるとき 過去の記憶をなくしているのも あらたな生が 恵みに充ちたものとなるため 忘れ忘れ忘れて ゆだねることだ 忘れ忘れ忘れても なにひとつ 失わ

          忘れる恵み

          荘子「坐忘についての問答」/シュタイナー「忘れる」「心のいとなみの隠れた深み」

          ☆mediopos3445  2024.4.23 『荘子』の内篇にある 「大宗師」七章に 「坐忘についての問答  身体と感覚を棄てて道と一体になる」がある 孔子と弟子の顔回の会話である 顔回が孔子に 「私、一歩進みました。」といい 「仁義の徳を忘れること」ができるようになったという それに対して孔子は 「それは結構。しかし、まだまだだね。」という さらに「礼楽の掟を忘れること」が できるようになったというときも 孔子は「まだまだ」だという しかし「坐忘(座ったまま

          荘子「坐忘についての問答」/シュタイナー「忘れる」「心のいとなみの隠れた深み」