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自発的隷従論:極私的読後感(11)

その刺激的な題名と、書かれた時代(16世紀末)とのギャップから受ける印象を全く裏切らない刺激的な内容は、その平易な訳と相俟って、強いメッセージ性を帯びたもので、一気に読み進むことが出来た。

自発的隷従の第一の原因は、習慣である。だからこそ、どれほど手に負えないじゃじゃ馬も、はじめは轡を噛んでいても、そのうちその轡を楽しむようになる。(p.43)

又、本書の約半分を占める解題や解説は、その内容を読み下す助けの役割を十二分に果たしており、この手の重い本にしては極めてコンベンショナルな内容であった。

一人の支配者は独力でその支配を維持しているのではない。一者のまわりには何人かの追従者がおり、かれらは支配者に気に入られることで圧政に与り、その体制のなかで地位を確保しながら圧政のおこぼれでみずからの利益を得ている。そのためにかれらはすすんで圧政を支える。(監修者 西谷 修 氏の解説より)

本書は、1500年代、中世フランスの若き法官の筆による本で、何故、圧政がはびこるのか?ということに対する論考をまとめたものである。故に著者は、圧政との戦いよりも、不服従(支えない)ことを主張している、いわば政府(支配者)対国民(被支配者)の構図が基本にある。

翻って現代、(諸説あるだろうが)国家による圧政よりも、巨大企業や経済原理と市民との対立構図の方が目立つようになってきている。国家よりも強大な資本や経済基盤を持つ企業群が既に生まれており、それらの動きが国家に大きな影響を与えるようになってきているからだ。

そして恐らく、ポスト・コロナの時代は、好むと好まざるとにかかわらず、古臭い対立構図が再び浮かび上がってくる筈だ。曰く「支配者 対 被支配者」のような・・・。国家と同様に、このコロナで企業群、そして国民も大きなダメージを受けており、それのリカバーには、国家よりもより強い圧力を(株主・資本家から)受ける企業群の方が、強い措置をもって臨むことは間違いない。

そして、同様に大きなダメージを受けている国民に対して、雇用者側として企業群は、従来より相対的に強い立場で振る舞うようになるだろうし、それを国家は十分に統制出来ないだろう。

そう、既に薄々気付いているだろうが、国家は「国民」を満足に救えるほどに強い訳でも、豊かでも、未来が明るい訳でもない。そう企業経済が潤沢に稼働しなければ、国家も国民も潤わないからだ。

そういうファンダメンタルズの中では、こういう「自発的隷従」は、より一層そこかしこに見られるようになるだろう。色々な美名やロジック、著名人の言葉などを衣装としてまといながら・・・。

時代は全く異なるが、かつて大学で学んだ黒人文学の中で接した「リロイ・ジョーンズ (LeRoi Jones : Amiri Baraka)」の詩に、極めて似た内容の詩があるのを思い出した。

『奴隷は、奴隷の境遇に慣れ過ぎると、驚いた事に自分の足を繋いでいる鎖の自慢をお互いに始める。どっちの鎖が光ってて重そうで高価か、などと。そして鎖に繋がれていない自由人を嘲笑さえする。(後略)』

1500年代のフランスの若き法官と、1960年代の黒人文学の交錯は、私の中ではとても刺激的な発見であった。


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