1.はじめに
MVV=ミッション、ビジョン、バリューといえば、経営理念に必要な要素であり、現代経営学の父と言われるドラッカーが提唱したと説明されることが多い。ほとんど「型」(テンプレート)のように使われていると言っても過言ではない。
また、その出典として通常、次の2つの文献が挙げられる。
ドラッカー著、上田惇生訳『ネクスト・ソサエティ』ダイヤモンド社[2002]
ドラッカー著、上田惇生訳『経営者に贈る5つの質問』ダイヤモンド社[2009]
このMVVは、少なからぬ混乱を惹き起こすことがある。(混乱の具体的な様相については、過去の記事に書いたことがある。次の2つの記事を参照。『ミッションとパーパスは同じもの』[2022.9.4]、『ビジョン、あるいは混乱をもたらすもの』[2022.10.3])「バリュー」については書いていなかったので、ここで一節を設けて軽く書いておく。
※1万字以上ありますが、後半の半分は付録です。前半だけ読めばこの記事が言いたいことが分かります。
2.MVVの2つ目のV、「バリュー」
日本語では「バリュー」と言われることが多いが、英語では「Values」と言い、「価値」ではなく「価値観」を指すようだ。「Values」の一語で「価値観」の意味がある。平たく言えばものの見方、仕事をする上で大切にしている考え方や行動の仕方である。
「バリュー」という用語がもたらす混乱も、ミッションやビジョンのそれに勝るとも劣らない。「バリュー」を「価値」だと思って、企業が顧客に提供する価値を定義しようとしたりする。それで「先進的なデジタルテクノロジー」とか、「感動的な顧客体験」とかを「バリュー」として定義し、経営理念の一要素にしたりする(先進的なデジタルテクノロジーを使うことにこだわって仕事をする、などの解釈すれば価値観を説明しているとも考えることはできるが)。もちろんそれが誤りだとは言えないけれども(経営理念に正解などあるわけではないので)、少なくともドラッカーの思想からはかなり遠いところに行っている。ただ、「情緒的価値」とか「社会的価値」などになると、かなり「価値観」に近付いて来て、あながち間違いとも言えなくなる。
一つ言えるのは、ドラッカーが「Values」として言及し大切だと言っているものは、「価値観」と訳したほうが自然だ、ということだ。「価値観」とは、何をもって「価値」があると見なすか、を表現した考えだから、「価値」と言ってもあながち間違いではないのだが、そうすると保留や註釈を付けなければならなくなるだろう。もしくは何か個別の事情があれば、かえってしっくり来ることもある(上の僕の勤め先がその例である)。
そもそもなぜMVVが大切かと言えば、組織、特に今日の組織には、次のような性質があるためである。
しかも終身雇用も当たり前ではなくなっていることも踏まえれば、このような自由な人々を会社に引き寄せ、かつ引き留め続けるためには、金銭では不足である。金銭だけのつながりであれば、より高い給料が他社から提示された場合にすぐスイッチしてしまうし、何よりも日々の仕事から責任感の充足と満足感、いわば働き甲斐が得られない。したがって、MVVのような精神的なものに共鳴してもらわなければならない。
3.主題―この記事の問題意識
MVVを取り巻く状況はまさに諸説紛々として、いろんな人がいろんなことを言っている。ならば、「ほんとはどうなんだ?!」と気になるのが人情である。というわけで、この記事は次のような問題を立て、それに答えることを目的として書かれている。いうなれば、この問題に回答することがこの記事の「使命(ミッション)」である。
問題
ドラッカーはMVVをどのように説明しているのか?
・「MVV」を「型」のように扱っているのか?
・「バリュー」は価値観であり、英語ではもともとValuesのはずだが、本当にそうか?
4.調査方法
前節の問題に答えるため、次の方法を採った。
❶『ネクスト・ソサエティ』の日本語版を読む。
❷『ネクスト・ソサエティ』(日本語版)の中で、使命、価値観、価値、ビジョンなど、MVVに関連しそうな語が出てきた部分の原典(英語版)を確認する。
❸『経営者に贈る5つの質問』は、できるだけ(記憶の限り)援用する。(今回改めて精査していないが、過去に読んだことはある。)
お前暇なのかと言われそうだが、実務にも役立ちそうだし英語の勉強にもなりそうだし、良しとしておきたい。
5.調査結果まとめ
(1)「MVV」を型のように扱った記述は全くなかった。
『ネクスト・ソサエティ』(日本語版)を閲読したところ、「MVV」、「ミッション」、「バリュー」という語さえも一度も現れなかった。この文献は、21世紀には社会がどのようになるかを論じたもので、MVVのような精神的な枠組みが重要であることを随所で論じているが、MVVに焦点を当てたものではない。MVVの作り方も論じていない。
『経営者に贈る5つの質問』のほうにも、少なくともやはり「MVV」という表現は出て来なかったし、型のようにも扱っていなかったと思う。「ミッション」「ビジョン」という語は出て来るが、「バリュー」も「バリューズ」も出て来なかった。ただ、価値観に相当するものとして「理念」が挙げられているように思える。
(2)「価値観」に該当する語は、英語版では「values」だった。
日本語版の「価値観」や「価値」は、英語版では「values」または別の語が当てられている。少なくとも対応する箇所で、単数形の「a value」になっている箇所は一つもなかった。文脈からも価値観と訳するのが適切なように思われる。詳しくは末尾の「付録」を参照。
6.考察
少なくとも『ネクスト・ソサエティ』を見る限りは、何の保留もなくドラッカーを「MVVの提唱者」と呼ぶには、抵抗があると言わざるを得ない。あえていうならば、「事実上の提唱者」である。
同書は随所で経営者にとって大事なことを論じており、その一つとしてMVVも登場するという体裁である。ここからMVVを経営理念の型として取り出すには、意図的な編集者の視点をもつ必要がありそうだ。
にもかかわらず、すっかりドラッカー=「MVVの提唱者」のようになっているのはなぜか。全くの推測だが次のような可能性が考えられる。
仮説1
ドラッカーが講演でMVVを切り取ったような説明をしたことがある。
または、講演で聴講者から「良い経営理念とはどんなものか?」などの質問を受けて、「ミッション、ビジョン、バリュー(values)を含んだものが良い」のような回答をしたのかもしれない。
仮説2
ドラッカーの著作を読んだ誰か別の人物が、経営理念の型としてMVVを使った。
たとえば、経営理念策定の依頼を受けた経営コンサルタントなどが、クライアント向けのパワポ資料でやりそうである。
2冊とも読了して受ける印象は、「ミッションとは?」「ビジョンとは?」「バリュー(values)とは?」という質問―ある特定の会社にとっての固有のミッションとは?という意味ではなく、一般的な語の意味としての質問である―を受けるということを、多分ドラッカーは想定していなかったのだろう、ということだ。
これらは説明不要の日常語として使われている。まさか「パーパスとミッションの違いは?」などのような質問が来るとは、ドラッカーは予想だにしていなかったのではあるまいか。それだけ、資本主義がもたらした現代社会の病根は深いというべきか。会社にとって本来当たり前であるはずの存在目的(使命)も、辞書的な意味から確認しなければわからなくなっている。
付録―日本語版・英語版の対応
使命、ビジョン、価値観、価値が登場する箇所を網羅し、対応する英語版の箇所も挙げておく。
日本語版、英語版とも4部構成だが、順番が変わっている。部の対応関係を次に示す。言うまでもないが、日本語版のほうを日本語で、英語版のほうを英語で書いている。
第Ⅰ部 第6章 トップマネジメントが変わる
PART IV: THE NEXT SOCIETY / ◆The Future of Top Management
第Ⅱ部 第1章 IT革命の先に何があるか?
PART I: THE INFORMATION SOCIETY / 1. Beyond the Information Revolution
第Ⅱ部 第6章 明日のトップが果たすべき五つの課題
PART I: THE INFORMATION SOCIETY / 6. The CEO in the New Millennium
第Ⅲ部 第1章 起業家とイノベーション
PART II: BUSINESS OPPORTUNITIES / 1. Entrepreneurs and Innovation
上のp161も、「価値観」と訳したほうが適切なように思える。
第Ⅲ部 第2章 人こそビジネスの源泉
PART II: BUSINESS OPPORTUNITIES / 8. They're Not Employees, They're People
第Ⅲ部 第4章 資本主義を越えて
PART II: BUSINESS OPPORTUNITIES / 10. Moving Beyond Captalism?
第Ⅳ部 第2章 対峙するグローバル経済と国家
PART III: THE CHANGING WORLD ECONOMY / 12. The Global Economy and the Nation-State
上のp244も、「価値観」と訳したほうが適切なように思える。価値にあたる語は、「moral concept」または「moral(rule)」である。「倫理的な概念」ということであれば、やはり「価値観」であろう。それともただの脱字だろうか。