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息を止めて書いた

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息を止めて書いた、勢いだけの文章。リズム以外何もない。
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記事一覧

『読む』ラジオ、知らないラジオ、『飲む』ラジオ

フクロウじゃなくて人間だった 九月という芸名を名乗って久しい。人前でコントをすることと、時たまエッセイなど文章を書くことを生業としている。 「コント」とか「エッセイ」とか言うとかっこよく聞こえるけれど、正直に言って僕のそれらは人前でケツを出しているだけに等しい。たまに真面目くさったことを言うのも、だいたいその後でケツを出すためである。 意外にもメシが食えていて本当に意外だ。そんなもんが生業になる時代に生まれてよかったなと思う。鎌倉時代に生まれていたら、偉い人の前でケツ

名古屋の夜をどうやって過ごすか 西宮の朝をどうやって迎えるか

今週末はかなり忙しい。鬼の如きスケジュールである。なんてったって大量にライブがある。そうだ、ライブだ。ネットの発信ばっかしてると思ったか。そんなわけない。誰がそんな奴になりたいんだ。 そう、なにせライブが多いのだ。そのことをネットで発信させてくれ。 6.7(金)が名古屋での公演で、18:00からと19:45からの2回公演。新作を中心にコントを30本ほど披露する。(残席いくばくか。ご予約はこちらから) そのあと、6.8(土)には兵庫県西宮市での単独公演。同じく90分のライ

モーゼになって「どうもー!」って言いたい

お笑い芸人は「どうもー!」と言いながら舞台に登場する。 漫才師は常にそうだし、コント師もライブのオープニングでは「どうもー!」と言いながら登場する。僕はあの瞬間が好きだ。芸人の色気が出る瞬間の一つだと思う。 緊張感と期待感がある場の空間を、声一つで切り開いて、自分のものにしてしまう感じ。上手い人だと、本当に声が空間を切り裂いていくのが見える。そのたび、なんか「モーゼだな」と思う。 お笑いに限ったことじゃないけれど、好きなものをライブコンテンツで見るのは結構凄いことである

「時代の文体」について考えている

10年くらい前から「時代の文体」について考えている。 前史としての「テンポよく悩むキザ」文体 以降、僕のおおまかで雑で主観的な理解。あくまでも自分の近くにやってくる文章の文体の話であって、学術的な整理ではないことに注意。 まず、もともと文章の言葉は書き言葉がメインだった(はずな)わけで、そこからのずらしとして口語体での文章があった(はず)。 が、サリンジャー〜庄司薫〜村上春樹あたりの流行から、ちょっと流れが変わった。グッと口語体が流行った。あの辺のまんまの文体を使う人

コナン×マクドナルド「真実はいつもタツタ」が好き過ぎて悔しい

最近、マクドナルド×コナンの広告が流れている。コナンのあらゆる回を混ぜてそれっぽくサンプリングしたみたいな、どこかあの頃のMADっぽい映像が流れたのち、チキンタツタを持ったコナン君が「真実はいつもタツタ!」と言う。 はぁ? 真実はいつもタツタ。マジで何言ってんだよ。どういう意味なんだよ。元ネタがコナン君の名台詞「真実はいつも一つ」なのはわかる。でもそれしかわからない。 言葉としてまるで何もかかってない。韻も踏んでない、駄洒落にもなってない、ダブルミーニングにもなってない

インターネットに潰されないように、どうかご無事で

九月と名乗って芸人活動をしている。養成所は出ていないし、事務所等にも所属していない。芸人じゃないと言われたらそうなのかもしれない。 活動の大半は単独ライブであり、実態としては「舞台中心の旅芸人」という感じだ。フラフラになりながら一人で各地を回り、なんとかライブで食っている。その傍ら、時たまこんなふうに文章を書いている。依頼が来て、各媒体でコラムやエッセイを書くこともある。書籍を一冊出版している。 以上のことは、僕について調べるとすぐに出てくる情報である。 さらに調べると

物書きになる人生と、物書きにならない人生

20代前半の頃、僕は「物書きになりそうな奴ら」と遊んでいた。全員いけすかない奴らだった。全員が変な服を着ていた。そして全員が見た目ほど変な奴じゃなかった。温かい、優しさとかのある奴ら。ただ変な服を着ていて、とっつきにくいだけの奴ら。ケレン味とハッタリとしゃらくささで生きてる奴ら。僕は彼らが大好きだった。 どいつもこいつもブログをやっていた。みんな気ままな日記や随筆、映画や文学の評論、詩や戯曲や小説などを書いていた。ご多分に漏れず、僕もブログをやっていた。僕は自分の書く文章が

「警察に行けばいい」とかみな言うが、警察署にはガチャ性がある

「警察に行けばいい」はどこまで現実的か諸々の出来事から派生して、「何かあったらすぐに警察に行けばいい」という意見をよく見かけるようになった。そういう考え方は、どこまで現実的なんだろう。 この記事では「事件後に被害者は心的トラウマから事件を正当化しようとするから〜」みたいな、心理学的ケアの話はしない。そういうのはちゃんとした本を読んでくれ。 もっとずっとわかりやすく、警察署そのものにまつわる話である。 個人的な経験として、警察署にはガチャ性がある。確実にある。あっちゃいけ

英語学習とインターネットの相関教育システム論 ─「ミーム英語」から「英語ミーム」へ─

相関教育システム論? 出身大学の話はよく聞かれるけれど、そんなことよりもっと細かい専攻の話をしたい。ちょっと専攻の話をさせてくれ。 学生時代、僕が所属していたコースは「相関教育システム論系」である。したがって、履歴書のうえで僕の専攻は「相関教育システム論」となる。相関教育システム論、聞き慣れない言葉だろう。 それがどういう意味なのか、実は僕も知らない。僕に限った話でもない。在籍していた誰も知らなかった。なんせ、そんな名前の学問がないのだ。何を指すのかがマジでわからない

「大学は勉強する場所だから、入試は勉強の学力によって選抜するべきだ」という文の意味が、あんまりわからない

「入試は勉強の学力によって選抜するべきだ」 AO入試を導入する大学が増えてきたからだろう、「大学は勉強する場所だから、入試は勉強の学力によって選抜するべきだ」という意見をよく目にするようになった。 僕自身は今後大学入試を受ける予定がなく、大学教員をしているわけでもなく、受験産業に関わっているわけでもない。当事者でもなんでもない。たかが制度の変更の一つ、「無関係に暮らしを営む」とひとたび決め込んだなら、そのまま柵から出んでいい群羊の一匹に過ぎない。 だが、あんまりにもその

「なぜ学校に行かなければならないか」と聞かれたとしたら、どう答えるか

”mond”の僕のアカウント宛に来た質問文より。 ◀九月の回答(原文ママ)▶ 九月と申します。くがつと読みます。なぜ学校に行かなければならないか、僕もあんまり分からないまま、学校に行ったり行かなかったりして大人になりました。学校それ自体に対する疑問はずっと自分の中にあって、大学では教員養成ではないタイプの教育学部を選択しました。教育について、ちゃんと考えてみたかったんです。 在学中はオルタナティブ教育、いわゆるフォーマルな学校教育とは異なるような教育の在り方、スタイルに

大学入試のスポーツ推薦制度は問題か?

”mond”の僕のアカウント宛に来た質問文より。 ◀九月の回答(原文ママ)▶ 九月と申します。くがつと読みます。入試は一般入試しか受けたことがありません。 ではでは、3つくらいの論点でもって答えます。概ね僕の論調としては「スポーツ推薦で人が入ってきてもよくない?」という考え方です。 大学は勉強する場所なのか? まずですね、「大学が勉強する場所」という認識自体が、もしかしたらそこまで妥当なものではないかもしれません。 いや、勉強する場所ですよ。わかってますよ。別に僕

表記別おしっこ怖さ査定ノート

前置き 日本語の難しさ日本語は難しい言語であると言われる。単なる噂である可能性もある。僕には真偽を判断できない。なにせ僕自身、第二外国語として日本語を学んだ経験がないからだ。英語やフランス語や中国語と比べたとき、日本語が抜きん出て難しいかどうかはわからない。 「自国語が他の言語に比べて傑出してなにかである」と主張することは、ことによってはナショナリズム的、あるいはエスノセントリズム的な意味合いをもってしまいかねない。あんまり根拠なく「日本語は他国の言語と比べて難しい」と言い

あらゆるスピーチを一本槍で貫いた校長の話

退屈といえば、焼肉食べ放題の後半と校長先生のお話である。特に校長先生のお話である。焼肉食べ放題の後半には「焦げた肉をもっと焦がして遊ぶ」みたいな遊びしろがある。マナーこそ終わっているがつまらなくはない。その点、校長先生のお話はヤバい。遊びしろが全くない。 校長先生の話を好んで聞く人間なんか、この世に存在するのだろうか。長いし、説教臭いし、かったるい。夏場なんかは体力のない奴から順番にぶっ倒れる。思慮のクソ足りない光景である。そんなに言いたいことがあるなら、プリントにして配れ