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次々に心に湧いてきた問いの文。

仏像は、空気を司り建物を支える。
今日も偶然、素晴らしい空間に身を置いた。
書写山圓教寺。
釈迦三尊像と、四天王像を、大講堂で。

私は自分に戻れますか。
優しくなれますか。
強くなれますか。
正しくなれますか。
こんな私でいいのですか。
生きていてもいいのですか。

お釈迦さまを前に手を合わせたら、突然、心の中にたくさんの問いが浮かんできた。こんなことは初めてだ。

少し脇に寄り、正座をしながら答えを待った。

優しい、強い、正しい。それらは基準がないから自分で考えることだ。
生きていてもいいかなんて、生きているのだから生きればいい。どう生きるか、自分に還るかなんて、そんなことは自分で決めることだ。

そういうことが漠然と心の中に浮かんできた。
全ては、自分で考えることなのだ。
当たり前すぎることである。

場所をうつし、摩尼殿にて格子の向こうの如意輪観音に手を合わせる。
「そのままの俗な人間としての私で。でも、他の人に悪意を向けずに生きていく。」
そんな感覚が私の中を通って行った。

私は私として生きていかねばならない。

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