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応用行動分析的にゴーイング・ゼロを考える

 先週勉強した「応用行動分析」の一部が、“テキスタイル的”な「あいまいさ」についての示唆を含むものだったので、抜き出して振り返りたい。

 「知的発達についての理解と支援」で概観したとおり、近年の知的発達に関する検査群は、「ヒトその人」(サン=テグジュペリのいう「ものそのもの、ことそのこと」)を理解しようとする試みから離れ、特定の能力の測定を行うことに焦点が当てられている。ここには、知的機能と適応行動の差異が一見見つけづらいばかりか、「社会側から押しつけられている障壁」によって害されているという文脈は入り込むいとまがない。もちろん人生はアンフェアではあるが、「一つの事象がその人のすべてを形作る訳ではない」という点に関しては平等であるはずだし、「数値」で測られたものであれば尚更だと思う。そしてこの平等性は、追い詰められた時にある種救いになる。
 と、いうような事を考えながら、応用分析について復習している。

《応用行動分析》ABA の中のそれぞれを見ていく。

【課題分析】
 いくつかの連鎖した行動に直面した際、どのような行動を獲得しどのようなステップでその場面に向かっていくかを検討するため、その行動に含まれている構成要素を細かく分析する事を指す。
 ここでは、一つ一つの課題項目が「動詞」で終わるように記述する。
 たとえばシルクスクリーンを行うときは、①インクを準備 ②プリント対象物を“準備" ③プリント対象物と作業台の間に平滑版を“設置" など場面を分割していく。細かに分割すると、得意な項目や好きな項目をよりよく知ることが出来る。また逆に、苦手な行動や避けている行動があれば、程度によってはそれだけ取り出して一緒に考えよう、という判断が可能となる。場合によればこれを抜き出し練習して「学習」とする。しかし、全体の障壁となるような程度であれば、その項目に対してはスキップするよう全体のワークを調整するか環境を変える(合理的な配慮による調整)方法を取ることも考えられる。
 シルクスクリーンワークのような“テキスタイル的”な「あいまいでよい」ものは、ひとつふたつ項目がスキップされても構わないと言う、文脈調整の柔軟さに素晴らしさがあると自賛したい。プリント対象物を準備しなくても、インクを選ばなくても、平滑版をおかずにぼこぼこの上でプリントしても、“テキスタイル的”なものとしては十分成り立つ。対象となる人や、状態・状況によって、課題と目的を自由に変更可能な状態に位置付けておくことが重要となりそうだ。

【連鎖化】
 一つ一つの反応を順番に強化していって、複雑な行動を形成していく手続きのこと。①インクを全体に置く ②スキージで広げる ③インクの広がり具合を確認する など一連の行動を確認したいとき、①②③それぞれの行動間の手続きに注視して、関連性を見ていく。そしてそうすることの先に、全体化とその内面化がある。
 ここでは「一度に全部を教える」と「一つ一つを個別に強化する」という二項の「どちらでもない状態」を取るところにポイントがある。
「一度に全部を教える」のではないという、一つ一つの手続きに対して意識を持ちつつ、「一つ一つを個別に強化する」のではないという、一つ一つの手続きの精度にはそれほどこだわらないという全体性を意識する。この両利きの感覚が重要でそうである。なるほど一つ一つの手続きの正確性に言及していくと、連鎖が解かれてしまっていつまでも全体が統合しない恐れがある。(そうした意味でも“テキスタイル的な”あいまいな目的を持つ仕事はこの連鎖化における両利き性を受け止めることが出来るので、適しているプログラムと言える。)
 連鎖化においては、基礎的な手続きからはじめて、最終的な統合された行動にむけて徐々に行動連鎖をながくしていく「順行性化」と、最終的な統合された行動から初めて逆戻りするように行動連鎖をながくしていく「逆行性化」があるそうだ。順行逆行どちらでもおこなえるように、テキスタイル的なあいまいな目標に関しては、その場その場の適当な態度を取っておきたい。

【プロンプト】
「一定の反応を生起させるため、補助的に使用される補足的弁別刺激」のこと。つまり、なにかのきっかけとなる刺激。これには、①音声言語による「言語的プロンプト」 ②絵や動画による「視覚的プロンプト」 ③手本を示すことによる「モデリング」 ④身体に直接働きかける「身体的プロンプト」(マニュアルガイダンスなど)等、いろいろなものがある。つまり、ある行動を引き出すためのきっかけを指す。そしてあくまで「きっかけ」に留まらなくてはならない。プロンプトを得ることが常態化すると、行動の目的が「プロンプトを得ること」にも成りかねない。このため、プロンプトそのものの援助量を徐々に減らしていったり、あくまで「補助的である弁別刺激」としてのプロンプトから、弁別刺激のみで行動が生起できるようにならしていくことが必要となってくる。その際にプロンプトと対になるのが「フェイディング」である。

【フェイディング】
 プロンプトの援助量を徐々に減らしていくために行う。たとえば「言語的プロンプト」であれば、声量を徐々に下げていったり、投げかける情報量を少なくしていったりする。「身体的プロンプト」であれば、援助の力を徐々に弱めていったり、場面を少なくしていったりという具合。また、いままで補助的に提示していたプロンプトと異なるプロンプトを新たに提示し、そちらに切り替えることでそれまでのプロンプトをフェイドしていく方法もある。これと同様に、刺激を変えるのではなく提示時間を変更する、「time delay」 などもある。

《応用分析》ABAは、あくまで「技術」である、という。
どのように教えるかという情報は提供するが、「何」を「どのように」与えるかという事は提供しない。この視点は、ウェーバーが「職業としての学問」の中で説いた「学問」のあり方に近い。ウェーバーは学問の倫理性を冷静に判断し、学問にとって「価値」はあくまで前提であって、学問それ自体が「価値」を問い教えるものではない、とした。
 ウェーバーは、①予測可能性 ②思考力 ③明晰性 を学問が持つ能力の中でも最重要視した。事象を①予測し、②考え(検討)、その思考を行っている自分を③内省(明晰性)する。学問はヒトにこれらを与えるという点で重要だ。ただし「価値」を相対的に認めたり論じたりすることはあっても、絶対的に判断することは適さない、という。
 この立場は《応用分析》のあり方に似ている。つまり、応用分析の反復学習がそのままその人の目的となったり、「プロダクト開発自体」が目的に直結すると、望ましくないからだ。極論、何もしなくても、何も作り出さなくても、人間良いっちゃ良い。
 「何もしない」ということと「何もしたくない」ということは、アウトプットは一緒だけど「明晰さ」の有無においてまったく違う。また「何も作らない」ということと「何も作れない」ということもまた、「予測可能性」という観点においてまったく別のものを心の中に醸成する。そして「思考力」において、そうした自分を「検討」することは、知性以外の何ものでもない。そしてこれはフランクルの言う「苦悩」に近い知性だ。
 《応用分析》を「うまく、人並みにやろうとするためにやるための技術」だと考えると、上のような誤謬は発生する。近代の社会生活はとくに「うまく、人並みにやろうとする」ことを前提のように求められるから大変だ。
 しかし「うまさや人並み」さがそもそも存在しなく、そうした枠外に「新しい価値」が存在するような、“テキスタイル的”な「あいまいさ」を目標にしたらどうだろうか。そのときにはこうした誤謬を超え、自分の「(近代の社会生活の要請にあえて併せて表現するとしたら)出来なさ」という結果を内包し、「予測可能性」「思考力」「明晰化」という知性の核にまったく逸れていない、明確な進歩が自分のなかに醸成されていることに近づいていく。こうした【ゼロへ向かう聡明さ】(勇気や苦悩)への理解は、現代にはなくてはならないスキルだと感じる。そしてこのゴーイングゼロと相性が良い概念が、「実存」=exsistere=であることは、また追って考えていきたい。

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