『選択肢が多い=幸せ』は人による、というお話。
どうも、久しぶりに母と電話をして相変わらず両親共々元気そうで安心したHanaki.です。
私の両親は仲いいよなぁと思うんですが、昔は娘の私からするとその仲の良さの度が過ぎていて「なんなんだよ」と思うこともしばしばありました。()
まぁでも大好きな両親が今でも幸せに過ごしてくれているみたいなので、私も幸せです。
さてさて突然なのですが、今の時代って私の両親のころと比べると、あるいはもっともっと前の時代と比べると、選択肢が多くなってきているんだろうなぁと考えるのです。
昔から見ると、かなり恵まれた環境が整っている時代なのかもしれません。
だけど別の視点からだと、幸せを感じながら生きるのにコツがいる時代、とも思うんです。
今日はそんなお話を、コーラでも飲みながら聞いてほしいのです。(ファンタでもいいよ)
あっその前に私の両親の何とも言えないエピソードを挟ませてくださいっ。
一緒に寝る両親
私の両親は70歳を超えた今の今まで、同じベッドで寝ています。
昔、私はそんな2人分の大きなベッドで1人でゴロゴロすることが日課だったんです。(昔からぐぅたらは変わっていない)
とある日、いつものごとくゴロゴロしていたら、気づけば両親が寝る時間。
父がベッドに入ったので、私はまだ寝室に来ない母の方に体をずらし、ゴロゴロしていました。
そんな私を見た遅れて寝室にきた母が、
「私ここで寝れないから向こうの部屋で寝ようかなぁ~~」
と言いました。すると父から即座に
「ママが寝れないだろ!!はやくあっちへ行きなさい!!!(ペシペシ!)」
と怒られる私。
母が直接私に「どいて」と言わずにわざわざ「寝れな~い」と言って父に怒らせる手法に、というかあざとさにイラつきながらも、私は黙って部屋をでました。
それ以来、私は2人が寝る前に両親のベッドで寝ることを止めました。
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夫婦ってこんなもんなのでしょうか?(虚無)
こう聞くといつまでも一緒に寝たいなんてラブラブだね、と思われるかもしれません。
確かに思春期の頃は、冒頭でもお伝えしたように娘の私からしたら恥ずかしくて目も当てられぬ、という時期もありました。()
とはいえ、両親は一緒に寝たい、というより「そういうもの」と思っているような気がします。
両親を見ているとたまに細かいところで「もっと自由にこうすればいいのに」思うことが多くありました。
だけど、ある意味「選択を自由につくれなかった」から40年以上連れ添い合えたのかなと最近は思います。
そんな両親を見ると『選択肢』って敢えて増やす必要ってないのかなぁとも思うんです。
自由って幸せなのか
なんとなくですが、選択肢が多ければ多いほど自由度が高くて、自由度が高ければ高いほど幸福度が上がる、という世論?ってありませんか?
少なくとも私はそう思っています。
と同時に、そんな自由を幸せと感じられるのは『自分軸がある人に限る。』とも思うのです。
例えば、自由に使っていいよとポンッと何もない原っぱに置かれたとして。
ヤギを飼いたい!と思えば柵を作ってヤギが休む小屋を立てて、ハイジがベッドにしていたあの草?みたいなものを用意して。
一緒に住みたいから自分の家もつくっちゃおうかな、あー自由に自分の好きな土地にできるってなんて最高なんだ!
と、選択肢を自分でつくれる人はこの自由度の高さに幸福度も爆上がりするでしょう。
だけど、ヤギも好きだけど大変な飼育をしたいほどでもない。じゃあ木でも植えてみる?
あ、樹木も結構種類あるんだな。どれを植えれば自分の好みの土地になるんだろう。あーもういっそう出来上がったものの中から選びたい。。
という人もいますよね。
この出来上がったものから選ぶ、ということは前者より自由度が下がるとも捉えられます。
そもそも何もない原っぱしかあげないよ、と言われたら。
その人は、どうすればいいか分からず、幸福度が上がるどころか下がる、なんてこともあるんじゃないでしょうか。
自由のハズなのに。
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今の時代、選択肢が多く持てる中で、「自由に自分で切り開いていく」ことに憧れている方も多いんじゃないかなと思うんです。
だけど、そこにはちょっとした落とし穴が潜んでいる気がしていて。
私は先ほどの原っぱの話だったら、前者で土地を自分色に染めたい派だと思っています。
そして今、私は脱サラをしてある意味、今後の生き方を自由に選択ができます。
そう、私はまさに何も無い原っぱに立っているのです。
だけど原っぱに立った瞬間、私は立ちすくんでしまいました。
自然が好きだからいざ漠然と樹木を植えようも、世界には6万種類以上の樹木があり、どんな葉っぱ、どんな幹が自分好みか分からず、絞ることすらできません。
実は私には選択肢を自分でつくる力がなく、そんな落とし穴に真っ逆さまに落ちていると自分で感じています。()
もちろんそう悩めることは幸せと今の環境に感謝をしているところはありますが、それでも結構苦しいもんだな、なんて感じているのも正直な気持ちです。
みなさまは、選択肢は多い方が自分はいい、と思われますか?
それとも、ある程度決められた選択肢から選びたいですか?
自分で決められない姪っ子
少し話が変わりますが、私には来年高校生となる姪っ子がいて、彼女は割と自分で決められないタイプなのか、例えば服のコーディネートなどは1人で決められないみたいなんです。
おしゃれは好きなのですが、コーディネートはすべて彼女の母(私の義姉)に決めてもらっています。
まだまだ中学生なのでそんなもんかなぁとも思うのですが、私はどこか昔の自分と重なるものもあり、「自分の思うようにしな?やってくうちに自分でわかるから。」とヒソヒソと伝えています。
というのも、今後はどんどん原っぱに物がなくなると思っているんです。
昔は、ある程度原っぱにも家が立っていてあぁここに住むのね、あぁ羊を育てるのね、はいはい、という時代もあったんじゃないでしょうか。
その中で、この家のトイレの色を黄色にでも塗り替えようかな、みたいにすごしていたのかなぁと。
「そういうもの」だったというか。
だけど良くも悪くも「そういうもの」ということが若干許されなくなってきたこれからの時代で、
10代の姪っ子はきっと私の時代よりももっと自由に人生を彩れる思うんです。
自分で決められないから、好みがはっきりしている母親に言われるように土地をつくることもできるでしょう。
自分ではなく、母というある意味他人軸で生きるという選択だって自由にできます。
私は別に自分軸で生きることがすべて、とも思いません。
本人が納得していれば何軸だっていいんです。
だけど彼女が自分軸で生きたい、と思った時。
自分の好きなものはなんなのかな、と考え出すスタートが遅いと少し大変な世の中になっているかもしかれないな、とちょびっと思うんです。
だから今から「私はこれのこれが好きだな」というのを増やしといてほしいなぁ、なんておせっかいな叔母心として思ってしまうのでした。
結局は幸せって人それぞれではある
私は決して選択肢が少なかった時代の方が幸福度が高いとか、そんなことが言いたいわけではないんです。
そもそも「幸せ」というのはやっぱり人それぞれ。
だけど自由は幸せなんんだ!自由!自由!と欲張ることに必死になると、意外な落とし穴につっこむこともあるんだなとは思います。
選択肢が少ないことって嘆く場面も多いですが、では選択肢がたくさん並べられた時に自分が納得した選択を胸を張ってできるのかなぁと。
嘆く前にちょっとそうやって立ち止まってみるのも大事なのかなと思うHanaki.でした。
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ところで樹木って世界中合わせて6万種類以上あるんですね。(調べて驚いたぜ)
私はクリスマスツリーが好きだから、どでかいモミの木でも1本ど真ん中に植えるかな、と書きながら答えにたどり着きました。(多分不便)
みなさんは何もない原っぱをどう変えたいですか?
本日もありがとうございました。
Hanaki.
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