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インターナショナルとグローバルの違い

はじめに

※有料記事ですが、最後まで読めます。
みなさんは、インターナショナルとグローバルの違いを説明できるだろうか。
これは、私が大学の国際学部に入学してすぐ、授業で教授が私たちに問うたことだ。両方とも同じようなもんじゃないの?どっちも国際とか外国とか、そんな感じでしょ?という方は、少し長いし、読みにくいと思うが、この文章を読んでみてもいいかもしれない。特に、これから国際関係の学部に進みたいとか、今大学でこういったことを勉強しているとか、世界を相手に働きたいとか、そういう方は何かしら得るものがあるかもしれない。私も、この問いを聞かれた大学一年生のときは、「そういえば何が違うんだ?」だった。
インターナショナルとかグローバルとかそんな名前の学部を出たけれど違いを知らないなんて言う方がもしいたら、少し恥じ入りながら読んでみてほしい。

最初に語源的な違いを書こうと思う。いわゆる”違い”は、この部分を読むだけでわかるので、興味がない人は読まなくていいと思う。
2~3章目では、インターナショナルとグローバル(グローバリズム)の歴史的な経緯の違いを書いた。背景などがわかり、より理解しやすくなるんじゃないかと思う。
4章目では、私の考えるグローバリズムとインターナショナリズムについて書いた。
5章目では、インターナショナルに関連する形でナショナリズムについて触れてみた。
6章目は、まとめのようなものになっていると思う。

大学で学び、その後もいろいろと本を読んだり考えたりした私なりの現在の結論は、インターナショナルとは弱者の思想であり、グローバルというのは強者の思想である、というものだ。もちろん私は、弱者の立場であるインターナショナルに足場を置いている。
以下、取り留めもなく書いてみようと思う。

インターナショナル(インターナショナリズム)とグローバル(グローバリズム)。これらは一見似ているが、まるで異なるものだ。真逆と言っていいかもしれない。どちらの道を行くかで、世界との関わり方・考え方は大きく違ってくると言えると思う。大げさに言えば今世界は、インターナショナルの道を歩むのか、グローバルの道を歩むのか、の選択を迫られている、と思う。

できるだけわかりやすく書いていきたいと思うが、何せ出典の多くは私が10年近く前に受けた大学の授業なので、記憶違いもあるかもしれないし、硬い言葉や回りくどい言い方が散見されると思う。その辺は多めに見てほしい。
わかりにくいところや質問があれば、遠慮なくコメントでたずねていただければと思います。

それと、有料記事になってはいますが、無料で最後まで読めるようになっています。読んでみて、悪くなかったなと思っていただけた場合は、おひねりをいただけると大変嬉しいです。

1.語源

さて。
まず簡単に意味の違いを言うと、インターナショナルというのは、”inter”と "nation"という二つの語からなっている。
接頭辞"inter"は、「~の間」とか「相互の/に」という意味だ。
"nation"は「(国民)国家」という意味なので、二つ合わせると「国と国の間」「国相互の」といった意味になる。日本語にすると、「国際」となる。この「国際」の後は明治時代に作られた和製漢語で、本来は「各国交際」という語をもとに作られたが、後に「交際」の意味が薄れて「各国」の意味でつかわれるようになっていったらしい。
一方のグローバルというのは、ラテン語で「球」を意味する"globe"が語源で、英語でも「球体」とかの意味になる。それが「地球」という意味に用いられるようになり、"grobal"も「地球全体の」「世界全体の」といった使われ方をするようになった。日本語に訳すときも、無理やり訳さずに「グローバル」とカタカナで使っていることが多い。
ということで、インターナショナルとは「国と国の間」、グローバルは「地球全体の」という意味である。

はてさて、これの何が違うのか。
細かい言葉の違いだけで意味は同じようなものじゃない?と思う方もまだいるかもしれない。全然違うのである。
大きな違いは、「国があるかないか」といえる。
インターナショナルというのは、「国と国の間」なので、「国ありき」、国家というものが存在する前提の考え方だ。一方、グローバルという言葉の中に国という要素は全くない。地球全体を一つの単位として考えるのがグローバルである。国なんてものは必要ない。地球を1つの単位にしたほがいいじゃないか、という考えである。

2.インターナショナルの歴史

ここで少し歴史の話をしたいと思う。
大学の教授の話によれば、歴史上にインターナショナルというのは三度現れたらしい。
一度目は、中世ヨーロッパ。
当時のヨーロッパでは、国は違えどフランス語という共通語があり、貴族=支配者層同士は言葉・文化・価値観を共有していた。「国内の貴族と農民」よりも、「他国の貴族同士」のほうが近しい存在であった。
「国を超えた貴族の繋がり」、これが最初のインターナショナルである。
こんな感じ↓

中世ヨーロッパのインターナショナル


二つ目のインターナショナルは、19世紀、こちらもヨーロッパ。
労働者・社会主義運動としてのインターナショナルがこれにあたる。
中世の段階から国を超えて繋がっていた貴族=支配者層は、フランス革命を代表とする市民革命で有産階級の市民(=ブルジョワジー)に主権を奪われるが、結局はそのブルジョワジーが資本家となって、労働者を搾取する構造になってしまった。
マルクスらは、「支配階級を倒し革命を起こすために労働者も国を超えて団結しなければならない」と説いた。
マルクス・エンゲルスの「共産党宣言」の最後にある「万国の労働者よ団結せよ」、これがまさにインターナショナルである。
「国を超えた労働者の、支配者へ立ち向かうための団結」、これが二つ目のインターナショナルである。
この流れで、世界初の国際組織第一インターナショナルや、それを引き継ぐ第二インターナショナルという、インターナショナルの名を冠する国際組織をも誕生している。
これまでは、支配者層の国を超えた繋がりだけだったものが、被支配者の国を超えた団結になった、という点で大きな変化といえる。
大体こんな感じ↓。

社会主義運動のインターナショナル

そして三つ目のインターナショナルが、第二次世界大戦後の現代。
二度の世界大戦から、”強力な国家による統制”への反省もあり、Nation=”一つの国としての縦の結びつき”(上の図で言う三角形)の意識が少し弱まる中、一方では”グローバル”=地球規模の問題も多く生じてきた。代表的なのは環境問題だろう。そういった問題は一国では太刀打ちできない。その上、複雑化した国際社会の中では政治レベルで国が動くのは難しいし、国が強力な力をもって社会を動かすことは「独裁」とされ、上記の通り世界大戦の反省から倦厭される。そうした中で、”国を超えた市民の連携”が活発に行われるようになった。もちろんその背景にはインターネットの普及がある。NGOやNGOなんかがわかりやすいだろうか。
ざっくりこんな感じ↓。

WWII後のインターナショナル

ここでいう"団体"というのは、NGOやNPOや企業などなど。あくまで国という枠組みの中にはいるけれど、国を超えて横に繋がる。今どき、他国と全く関わりのない会社は存在しないんじゃないかと思えるぐらいにこの”国を超えた横の繋がり”=国際化は進んでいる。
上の図では政府は点線の枠で囲んでいないが、もちろん政府も国を超えて繋がっている。戦後にできた「国際連合」なんていうのは国際=インターナショナルの代表といってもいい。

3.グローバリズム

一方のグローバリズムだが、現代言われているようなグローバリズムがしっかり現れたのは戦後、それも冷戦後だという。世界大戦の時代は、あくまでも”国家間”戦争の時代だったので、インターナショナルの時代だったといえる。しかし、世界大戦が終わり冷戦という世界の二分状態も終わったときに、国という概念を超えた世界が現れた。
物凄く簡単に図示するとこんな感じだろうか。

グローバリズム 点線の丸は一応の国家

国というファクターはあるにはあるが、もはやあまり多くの意味を持たない。むしろ、国という存在が二度の世界大戦を生んだのではという反省がある。そして世界大戦に勝利し冷戦にも勝利した若き”世界の警察”アメリカの軍事力・経済力がある。国の影響力をできるだけ小さくして、市民のやりとり=市場:マーケットは地球規模で展開できた方がいいんじゃないか、という考えのもと進められたのがグローバリゼーションと言える。多国籍企業を考えるとわかりやすいと思う。ここでは、国というものはできるだけないほうがいいものとされる。なぜなら、国という存在は自由な経済活動を妨害するものでしかないから。多国籍企業は、少しでも関税が少ない国に会社を置き、材料が安い国で資材を集め、人件費が安い国に工場を作り、自由度の高い場所で売る。国という枠から解き放たれている。

これは、「小さな政府」や「夜警国家」といった考え方と相性がいい。これは国の役割はできるだけ小さくして(犯罪を取り締まる=夜警ぐらいだけにして)、あとは企業などの自由な活動に任せたほうがいい、という考え方だ。夜警国家の考え方を究極まで推し進めたのがグローバリゼーションとも言えるかもしれない。グローバリゼーション的な考えで言えば、夜警機能も多国籍警備会社を雇えばいい。実際アメリカなどは、多国籍軍事企業に戦争を外注したりしている。国と国の争いだった戦争も、今やグローバル化してグローバルな経済活動の一環となっている。

4.強者のグローバリズム、弱者のインターナショナリズム

さて、ここまでインターナショナルとグローバルの歴史的な違いを説明してきた。かなり違った背景の違ったものだということが少しわかっていただけたのではないかと思う。
国を超えた支配者層(貴族)同士の繋がりに始まり、被支配者層(労働者)の団結へと展開し、ついにはそれぞれの国内に存在する様々な民間ファクター(企業、NGO等)の繋がりへと発展してきた「インターナショナル」。
一方、第二次大戦と冷戦の後、行き過ぎた国民国家への反省と強国アメリカの存在を背景に、世界規模の自由な経済活動という形で現れた「グローバリゼーション」。

みなさんは、どちらの価値観に共感を覚えるだろうか。
最初にも書いたが、私も国際学部に入りたての一年生のときは、二つを同じようなものと思っていたし、なんなら説明を聞いても「だったら自由なグローバリゼーションのほうがよさそうじゃない?」ぐらいにしか思わなった。読者の中にも、そう感じる人が多いんじゃないだろうかと思う。

しかしそんな私(たちひよっこ国際学科生)に対して教授は、「あなたたちは国際学科生になったのだから、国際学(International Studies)を学び、インターナショナルに生きてほしい。」と話した。そしてその後の授業では、現代社会におけるグローバリズムの弊害について多くを学んだ。

グローバリズムの弊害とは何かといえば、まずはすべてのものが世界規模の競争にさらされるということがあげられる。日本の田舎の農家が作った野菜と、アメリカの大農場でふんだんに農薬を使って作られた野菜が、同じスーパーに並ぶ。地元の何十年と続く小汚い食堂と世界展開しているファストフード店が昼食客を取り合う。コーヒー一杯に拘る渋い喫茶店の近くにオシャレで派手な世界規模のカフェが建つ。
良くないもの・時代遅れのものが淘汰されるのは当然という人もいるかもしれない。しかし気をつけなければならないのは、良くないものが淘汰されるのと、淘汰されたものが良くないものだとするのは全く違うということだ。

グローバリズムは、自由経済や市場主義の名のもとに、その地に根付いていた文化を破壊する。これは”グローバリズム”という考えからしたら当然のことと言える。グローバリズムとは世界を一つにする考えであり、その考えによって立てば国によって地域によって文化が違うのは正しくない。どこでも同じ物が買えて、どこでも同じものが食べられることが目指すべき方向なのだから。

これは、国という枠に阻まれていた人にとっては、解放と言えるだろう。国で迫害を受けていた人々や肩身の狭い想いをしていた人にとっても、自分らしく生きられる場所を探す環境を提供するものになる。ある事業を興したいが自分の生まれた国では禁止されている場合、または税金が高すぎて起業できない場合、グローバリゼーション下では、国を出て他の国で実現できるかもしれない。
しかしこれらは、その人がグローバリゼーションの論理に従って自由に国を出られる場合に限る。この点で私は、グローバリゼーションとは強者の論理だと思うのだ。

「国が自由な経済活動を制限するのはよくない。そして全てのものが競争にさらされることは、サービスの品質を向上し価格を下げるために良いことである。競争に負けるのは努力を惜しんでいるからか劣っているからである。また移動も自由なのだから、自分の都合のいい場所を選べばいい。」
この論理は、どう考えても強者の論理だろう。
個人と多国籍企業が戦うことを競争とは言えない。それは大人と子供を同じ条件で競走させるのと同じことだ。スポーツも、体重や性別で試合相手を制限する。ヘビー級のボクサーがライト級のボクサーを倒すことを、私たちは正しい試合とは思わない。
それに、「私はこの土地で生きたい」「この文化の中にいたい」という気持ちは一切配慮されていない。このような気持から移動の自由を行使しない人たちは、「その地を選んだのは自己責任」の声のもと、無視される。
特定の文化や土地に執着がなく、どこでも生きていけて、体も丈夫で、弱いものを倒すことに抵抗を感じない人が活躍できる世界。これがグローバリゼーションのマイナスの面だ。

では、インターナショナルはどうか。これは、グローバリゼーションと比較するとより弱者の思想だと思う。それは、根底に国家への依存が存在するからだ。国家の内部にいれば、ある程度の競争は避けられる。国が関税を設定したり、輸出入を法律で取り締まったり、社会福祉でサポートしてくれたりする。国によってそのサポートは異なるので、そういう意味では不平等ともいえる。アフリカの内戦が続く貧しい国に生まれたのと日本に生まれたのでは、スタートが違う。しかしその不平等に対して、「じゃあ全ての国家のサポートをなくせばいい。」というアプローチ(グローバリゼーション的なアプローチ)が正しいかというと、それは違うと思う。恵まれた国に生まれた者が、その国の一人として他国のサポートに行けばいい。これがインターナショナル的な発想だと思う。
インターナショナルは、自由な移動もできないし、世界相手に競争もできないような、この国で生きることしかできないような、そして仲間同士で手を繋いで立ち向かわないと大きなものと戦えないような、弱い者たちにアプローチだと思う。そして、社会は、強いものではなく弱いものの立場に立ってデザインされるべきだと思う。

5.InternationalとNationalism

難しいのは、インターナショナルはナショナリズムと深い関係があることだ。ナショナリズムNationalismは国家主義などと訳されるが、要するに「私は○○人である」という意識のことだ。これだけであれば問題はないが、問題はナショナリズムを他の国との比較の中で育む場合が多いことだ。
「私は○○人である」という意識は、「私は△△人や◇◇人とは違う」という考えと裏表だ。これが行き過ぎると、「あの国の人はこんな無礼なことをする。それと違って日本人は礼儀正しい」というような、他国への悪感情を容易に生む。それがさらに進めば、戦争である。

実際、明治~昭和期に日本は戦争を行い効果的にナショナリズムを作り上げてきた。明治の日本には、そもそも「日本人」という意識がない。「長州人」「薩摩人」「土佐人」という意識があるだけである。しかし外国と対等に付き合っていくには「日本人」という意識を”創造”する必要があった。明治の日本は学校教育を制度化し、統一された日本語を教え統一された日本史を教えることで、共通の「日本人」という価値観を作った。日清・日露という戦争も、日本人=我々というナショナリズムを完成させるのに必要だったと言える。そしてその結果が、第二次世界大戦という行き過ぎたナショナリズムだった。

ナショナリズムは、一つの国としての団結だ。国家という制度を維持するためには必要な団結である。インターナショナルは、国家=ナショナリズムという縦軸の団結に対する、国家を超えた横軸の団結だが、その前提には国家=ナショナリズムがある。
ナショナリズムの対極にあるのは、グローバリゼーションだ。日本という国への愛情や日本文化がなくならないで欲しいという思いはナショナリズムであり、国も各国文化もなくていい(正しくは競争に負けるなら消えていい)という考えはグローバリズムだろう。
そういう意味で、インターナショナルは、ナショナリズムを前提にしながら、グローバル(世界を一つに)にはならないように、しかし世界に目を向け国を超えて手を繋ぐ、という非常に危ういバランスの考えと言える。

6.インターナショナルという思想

グローバリズムは文化の破壊を生むし、行き過ぎたナショナリズムは戦争を生む。そういう意味では、どちらも強い思想だと思う。
その中間で、インターナショナルという思想はいかにも弱い。
自分の国や文化は好きだし、困ったら国に助けてもらいたいし、世界規模の競争は避けたい。しかし他の国を敵視もしないし、問題は一緒に解決したいし、自分の国がおかしいと思ったら他の国の人と協力して弾劾もする。
なんともいいとこどりで、どっちつかずで、思い切りがない思想にも思える。しかし、それこそが今の時代に求めらている思想ではないだろうか、と大学で学んで10年近く経った今、思うのである。

世界に目を向けると、戦後に爆発的な勢いでグローバリズムが進展し、世界中が均質化に向かった。マクドナルドもスターバックスもユニクロも吉野家も世界中にある。世界中が同じハリウッド映画を観ているし、みんながiPhoneを使っている。
一方で、行き過ぎたグローバリズムは世界規模の貧富の差を生み、文化を破壊した。人々のグローバルな移動の活発化は、移民への排外思想を生み、各国でナショナリズムが高まった。アメリカのトランプ元大統領、イギリスの元ジョンソン首相、イタリアのメローニ首相、フランス大統領選のルペン氏、ドイツの政党AfDやスウェーデン民主党の躍進…。
世界中で、ナショナリズムを掲揚する政治家や政党が力を伸ばしている。これはグローバリズムの揺り戻しと言える。ロシアのウクライナ侵攻もこの文脈で語れると思う。グローバリズムは強者の論理だが、多くの人々は弱い側にいる。弱い立場の人々は、グローバリズムを憎み、外国や移民を敵視し、自分たちを守るナショナリズムに走る。しかし前述のように、行き過ぎたナショナリズムは戦争を生む。

一方で、多国籍企業は相変わらず強力な力を持っている。Google、Apple、旧Facebook、Amazonといったグローバル大企業が世界を牛耳っていると言っても過言ではない。日本の農作物や医薬品・インフラを輸入品から守る法律や関税は、自由市場の名のもとに次々と撤廃されている。そして身の回りにも、「グローバル人材になろう」「世界のどこでも働けるスキルを身につけよう」といった言葉が氾濫している。
世界は、グローバリズムとナショナリズムの間で引き裂かれようとしているように見える。

この行くも地獄戻るも地獄のような状態で、インターナショナルという思想が一筋の光だと思えるのは私だけだろうか。
たしかに理想的すぎるかもしれない。マルクスの目指した社会主義のように、誰も辿り着いていない・実現したことのない目的地かもしれない。そして実現不可能なのかもしれない。

しかし、単純なグローバリズムorナショナリズムという争いに加わるのではなく、隣国を敵視したり、一方で「グローバル人材になろう」=自分の国がなくなっても問題ない人になる道を選んだりするのでもなく、"Inter" "Nation"、国と国の間で手を繋ぐ存在となる道を進みたいと思う。

おわりに

長々と書きましたが、異常がインターナショナルとグローバリズムの違いと、私の考えです。書いているうちに色々書きたいことがでてきたりしてまとまらなくなりました、すみません。もしかしたら、また言い残したことを別の投稿で書くかもしれません。

現在様々な大学に、「国際○○学部」とか「グローバル○○学部」みたいな学部が存在しています。今読んでいる方の中にも、それらに進みたい人やそこで学んでいる/学んだ人もいるかもしれません。
その人たちは、是非今一度、自分は国際=インターナショナルの道を行きたいのか、グローバルの道を行きたいのか、考えてみてください。

(ちなみに私の母校の大学には、国際学部の中に、国際学科とグローバル学科がありました。国際学科は、南北問題や環境問題やジェンダー問題、平和や途上国支援、文化交渉やツーリズム問題などの国際問題について学ぶ学科で、グローバル学科は”このグローバル世界でどうすれば活躍できるか”みたいな学科でした。パッと見は似ていますが、内情は真逆の学科だと、私は思っています。)

このひたすら長い記事が、誰かの役に立てば幸いです。質問やご指摘があれば、コメントにて承ります。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

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