萌えと儚さ

よう先輩の語る「萌え」

ポッドキャスト「いんよう」の第4回【日常系と萌えの話】でよう先輩が語っていた「萌えって何か」が眼から鱗が落ちた。
それは、例えば、
廃墟好きが廃校で置き去りにされた机と椅子を写真に収めるように「そこにあるべきものがない」ことや、
人間が本来社会的な能力として備えておくべきコミュニケーション能力が足りていないことが「ツンデレ」として現れていることなんじゃないか。
この、「欠落を愛でる」ということが「萌え」という気持ちにつながっているのではないかという主張だ。
オタク文化というか、ニッチな物に対する嗜好性は多少なりとも持っている自覚はあるが、いわゆる「萌えアニメ」みたいなものにはピンときたことがなかった。
自分自身がこの主張を聞いて「萌えアニメ」を見ることはなかったが、
それらが好きな人への理解が深まった実感があった。
全員がそうではないだろうが、ツンデレキャラ推しの方はこの「返す一言目がどうしてもきつくなってしまうダメさ」と「そのまま生きていること」を愛でているのだと。

対義語としての儚さ

萌えの解釈を知ったとき、「儚い」が対義語なんじゃないかと思った。
萌えが「あるべきものがない」だとすると、
儚さは「なくなりそうになりながら存在する」ことに思えた。
この二つの言葉は対義語でありながら地続きでもある。
桜で例えてみる。
満開のタイミングで感じるのは、「風が吹いたら今にも全て散ってしまいそうな儚さ」
それに対して、
秋ごろ、半年前に花見をした公園を通ったとする。
花見をした場所で立ち止まり、見頃を迎える紅葉のそばで歯を落とした桜を見た時に感じるのが「満開の花びらという、桜のあるべき姿を失ったまま、ただそこにいるという萌え」
のような雰囲気だ。

ガラス芸術で感じた萌え

最近、ガラス芸術を間近で見て心を惹かれた作品があった。
そこで出会った作者の方と話していく中で、
作品が完成し、写真撮影を迎える数日前に不慮の事故で割れてしまった作品の残骸を見せてもらった。
その写真は最初に心を惹かれた作品と同じくらい僕の感情を動かした。
漠然と美しかった。
しかしその時は、この感情を言語化できなかった。

いんようは現在シーズン1が終了し、現在おやすみ期間中だ。
毎週放送されていた頃は最新回を聞くのが精一杯で、過去回に手が(耳が?)回らなかったが、お休み中なら過去回をどんどん遡ることができる。
そこで聞いていた第4回で話していたのが先述した「欠落を愛でる」だ。

点と点がガッチリつながった気がした。
そうか、この写真に感じた何かは「萌え」だったのか!と。
先に完成形の写真を見た後だったからこそこの感情は加速したのかもしれない。
割れていない時の写真を見た時感じたのは確かに「儚さ」すなわち
「すぐにでも壊れてしまいそうな美しさ」だったが、
割れてしまった後の写真を見たとき感じたのは少し違う何かだった。
「きっとあるべき状態ではないはずなのに、そこから放たれる輝きにも似た何か」というこの感情はまさに「萌え」だった。

この写真は本人にとっては苦い思い出だろうと思う。
時間も労力もかけて作った作品が、本来のあるべき姿としての美しさを写真に収める前に割れてしまったのだから。

ただ彼女は、割ってしまった後輩を赦した。
この過程も含めて美しいと思った。
きっとその後輩も同じような場面に遭遇したとき彼女と同じように割ってしまった人を赦すだろう。
そうやって、儚いガラス芸術の世界が儚いまま保たれるおかげで、
身近にいればまたこの萌えにも触れることができる。

個人的な願望に過ぎないが、
割れてしまい「作品」になれなかった子も、
どんどん見せていって欲しいと思った。
完成された作品と割れてしまった作品は、
美しいものとそうではないものではなく、
儚い作品と萌える作品だと思うから。

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