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昭和の子供時代

#創作大賞2023 、#エッセイ部門

昭和38年(1963年)生まれは今年、還暦を迎える。
かく言うわたしもその一人だ。

この世代は祖父母が明治生まれ、両親が戦時中に子供時代を過ごしている。
私の両親世代が最後の戦争体験者ではないだろうか。貴重な存在だ。

東京オリンピック開催を翌年に控え、日本中が活気にみなぎっていたこの頃。
戦争は少しづつ過去のものになり、未来への希望に溢れていた時代。

来年は今年よりも経済が成長している、と信じて疑わなかった高度成長時代(1955年〜1973年)の真っ只中で小学校低学年までを過ごした。
ちょうどちびまる子ちゃんの世界そのものである。

まるちゃんのように私もよくお使いに一人で行ったものだった。
当時は子供一人でビールを買うことは問題なかった。
お店の人も「お父さんのお使いかい?えらいねえ。」なんて
たわいのない会話をしていたに違いない。
しかし当時のビールは瓶ビールで今のような軽量の缶ではなかった。
無事運んだ私もすごいけど、そんなお使いをさせた親もなかなか
肝がすわっていたものだ。
そんなリアルまる子の昭和の思い出話にどうぞ最後までお付き合いください。


明治生まれの祖父母との2世帯同居

わたしが物心ついた頃にはすでに祖父母との2世帯同居生活が始まっていた。
まさに「ちびまる子ちゃん」家そのものである。
家の中の騒々しさもまるちゃん家には負けていなかったと思う。

父方の祖父母をおじいちゃん、おばあちゃんと呼び、母方の祖父母は
じいちゃん、ばあちゃんと分けて呼んでいた。

小さな木造たての家に1階部分が両親、私、年子の弟。2階にはおじいちゃん、
おばあちゃん、私より9歳年上のいとこのお姉さんが同居していた。

おじいちゃんは背の高い人だった。当時住んでいた小さな家の玄関を出る時、
腰を少しかがめないと頭がぶつかるほど背が高かった。
それとも単に玄関ドアが低すぎたのだろうか。
おばあちゃんが愛嬌があるのに比べおじいちゃんは幼い子供の目からしても
少し近づき難い雰囲気のある人だった。

私が4歳ぐらいの頃であろうか。父にデパートで当時TVのCMで
紹介されていた“象が踏んでも壊れない筆箱“を買ってもらった。
正式名称はアーム筆入れ
私は赤い筆箱、弟は緑の筆箱をそれぞれ自分で選んだ。
買ってもらったのが嬉しくて
それを見せるために2階の祖父母の部屋に行く私と弟。
「見て、見て!象が踏んでも壊れない筆箱をお父さんが買ってくれた」と
私たちはとても自慢げである。
するとおじいちゃんは“本当に象が踏んでも壊れないのか?“と言って、
緑色の筆箱をおもむろに踏みつけた。
すると新品の筆箱にパキーンと線が入ってしまった。

「おじいちゃんが踏んだら壊れちゃった」というショックな気持ちと
(CMで言っていることと違うじゃないか!)
どうして壊れちゃったの?という悲しい気持ちが入り混じった感情を
抱いたのを今でもはっきりと覚えている。

弟がどのような反応をしたのかは覚えていない。
父におじいちゃんが壊した!と文句を言ったかどうかも記憶がない。
ただ私の赤い筆箱は今でも当時同様、無事の状態で保管されている。

アーム筆入れ

樺太で幼少期を過ごした父の家族

父は樺太(サハリン)生まれである。戦争状況が悪化し引き揚げを
余儀されるまで一家は暮らしていた。
55歳の若さで病気で亡くなったが、生前はよく樺太での暮らしの話を
懐かしそうにしていた。
きっと楽しい子供時代を過ごしたのだろう。

おそらく父方家族は樺太時代、割合と裕福な生活をしていたのだと想像する。
お正月に子供達全員が新しく仕立てた着物を着て撮った家族写真が
何枚も残っていた。
それも白黒ではなく少し赤茶がったセピア色の写真である。

北海道へ引き揚げてからの生活は想像を絶する大変さだった。
特に戦争終了直前の食糧難はひどいものだった、とおばあちゃんは
よく言っていた。
空腹で真っ直ぐの道も曲がって見えた。まさに極限の域である。

戦争終了時、父は13歳。街で見かけた体格のいいアメリカ兵を羨ましい、
と思ったそうだ。自分もあんなに太るくらい色んなものを食べてみたい、と。
ダイエットにお金を払う今の世からするとなんとも皮肉な話である。
そして映画で見るように「Give me a chocolate」と叫んでジープの後を追いかけ
チョコレートをもらった。しかしその味はお世辞にも美味しいものではなかった。まるで石鹸をカジっているようだった、と言っていた。
一体どんな味だったのだろう。

一方、おばあちゃんは戦後直後、外に出るのは必至の覚悟だった、とよく話していた。供給される食料をもらいに行くのだが、女性が拐われるという噂が絶えなかったらしい。そこでほっかむりをして男の子のような格好をして出かけた。150cmもない彼女の身長では子供に見られたようだ。

いつも我が家はフルハウス

9歳年上のいとこは高校卒業するまで私たちと同居していた。
週末は彼女の家族が遊びにくる。正月・盆ともなるとプラス父方の親戚が
遊びにくる。父は5人兄弟の末っ子である。
我が家は常に“フルハウス“だった。
子供の頃は賑やかな家と手土産のクッキーや珍しいお土産が嬉しかった。

しかし大人となった今、ふと思う。
義理の両親との同居に加え常に父方の親族がいる家は母にとって
どんなものだったのだろう、と。

台所は別れていたが、トイレとお風呂はそれぞれ一つで皆で共有だった。
お風呂の順番は待つことはできるが、トイレの順番待ちは厄介である。

改めて思う。今年87歳の母にとって、当時女性が結婚するということは
家に嫁ぐということだったのだな、と。
母の実家は車で30分ほど離れた場所だったが、正月とお盆ぐらいしか
訪ねた記憶がない。だから、じいちゃん、ばあちゃんと一緒に過ごした
記憶はわずかしかない。

お見合いではなく恋愛で結婚した両親だが、父の家に嫁いだ母だからこそ、
父方親戚が常に集まる家でも文句を一切言わずに
嫁という立場を貫抜くことが出来たのだろう。
私にはとうてい出来ないことである。

大人同士は食事も終わり、お酒が入ってくると必ず戦時中の話になった。
戦前暮らしていた樺太の話から始まり、引き揚げたあとの暮らし、
そしてその後の生活。
いつも同じ話をなん度も繰り返し懐かしそうに話していた。

戦後からまだ20年ちょっとしか経っていない頃の話である。
ちょうど沖縄が日本に返還された(昭和47年)あたりであろうか。
普通の生活が暮らせるようになって、戦争が過去のものになりつつも
まだまだ体験者の中では忘れ難い経験として続いていたのだと思う。

ものがない時代を乗り越えたおばあちゃんは今でいうミニマリスト
生活をすでに実行していた。
あくまでも生活の知恵であって、必然的にそうなった。

サランラップも一度使ったものは洗って窓に貼り乾かし、使い直していた。
それが衛生的であったかどうかはわからない。

食材も決して無駄にしない。
出汁を取るための小魚は袋の最後の方は粉状になる。
それを金平ゴボウと一緒に炒める。するとカリとした食感が加わり
絶妙に美味しくなる。

それにもまして最高だったのはおむすびだ。
あのおむすびの味は言葉にできないほど美味しかった。
おばあちゃんは炊飯器は一度も使わなかった。お米はいつも鍋で炊いた。
なべの底に残っているおこげとたっぷりの塩で握るおむすび。
おばあちゃんの歴史の刻まれたシワだらけの手で握るご飯は
まさに絶品だった。

部屋の掃除はほうきと雑巾で済ましていたのだと思う。
お茶を入れた後の茶葉は捨てずにとっておく。
玄関先に使用済みの茶葉をまいてほうきをかける。
するとホコリが空中に舞うことなく
スッキリと玄関掃除ができる。まさにエコだ。

洋装を一度もしたことのなかったおばあちゃん。普段着の着物や帯はかなり
テカッていたように記憶している。きっと数十年愛用していたのだろう。
帯を数秒でチャチャと結んで着る姿は本当にカッコよかった。

明治に生まれ昭和で亡くなったおじいちゃん、おばあちゃん。
まさか彼女たちが戦後やむなく実行した生活スタイルが今、新しいものとして
受け入れられているなんて知ったらさぞかし驚くことだろう。

平和の尊さ

おばあちゃんはことあるごとに私たちは幸せだよ、と言うのだった。
平和な世の中に生まれ育つことができる。そんな幸せはことはない。
まだ小学生だった私にとって平和とは、幸せとはなんだろうなんて
考えたこともない。日々の学校生活を乗り切るので精一杯だった。
大人たちが戦争がどんなにひどいものだったと話をしているのを
聞いていても理解することは難しかった。

ただ、おばあちゃんの忘れられない一言がある。
「この世で一番恐ろしいものはオバケでもなんでもない、人間だよ」と。
おそらく真相をついているからこそ印象に残った言葉なのだろう。
50年以上経っても忘れられない言葉である。

毎年8月がくるたびに

テレビで特集される終戦記念日関連番組を観るたびに
親戚一同が集まっていた賑やかな子供時代を思い出す。
戦争前後の困難な時代を乗り切った両親・祖父母の世代。
当時の話をする大人の姿を見ながら、横でスイカを頬張っている私。

私が過ごした子供時代はまだまだ戦争が生で語られていた時代だった。

昭和が遠くになりつつある今、このような語り継がりを決して
絶やしてはいけない、と改めて思う。








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