記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

小説【ある閉ざされた雪の山荘で】を読んで考えさせられたこと◆ネタバレ多し◆

<結論>
続けることの大切さを知った

こんな結論を書いているけれど、これは決して小説についてではないことを最初に断っておく。
この作品は東野圭吾氏が世に知られる前、1999年「白夜行」が発表される3年前のものである。
今年の1月に映画化になっているので、てっきり最近の話かと思い、どれどれと購入したが、実に28年も前の作品だった。

芝居のオーディションに合格した男女七人がとある山荘に招集される。何が行われるか知らされていない七人の元へ演出家から手紙が届く。そこには細かく状況設定が書かれてあった。”これは舞台稽古だ。雪で閉ざされた山奥の別荘、電話も繋がらない孤立した状態。その中で今後起こる出来事に各自が自分で考えて行動をするように”というものだった。七人はどういうことなのか状況を理解しきれずにいたが、きっと何か仕掛けがあるのだろうと考え、この”舞台稽古”の三泊四日を乗り切ろうとした。そして最初の事件が起きた。果たしてこれは芝居なのだろうか、実際に起こっていることなのだろうか。

コナンかよ。

少年探偵団(コナン、光彦、あゆみちゃん、元太)と阿笠博士と蘭と園子が脳内再生。私は小説を読むときに自分で勝手にキャスティングをして楽しむんだけど、高山みなみがノイズになってしまうというアクシデント発生。
いかんいかん、これは若手の役者たちの七人だ。懸命に切り替える私。

ふう。
小説に戻ろう。

状況設定だけ与えられて何をどうしたらいいかわからない状態だったけど、リビングの本棚にこのために揃えられたような新品らしき小説を発見した参加者。五種類の本が七冊ずつ。”グリーン家殺人事件”、”Yの悲劇”とか。この中にアガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」もあった。マザーグースにあるインディアンの歌どおりに殺されていく小説。

この話は、無人島の屋敷に招待された訳ありの十人が全員殺されてしまい、本当に”そして誰もいなくなる”のだ。そして小説の最終章で真実がわかる、という展開になっている(ただし映画では違う結末になっていて私は興醒めした)。

小説を読んだことがないという女優が言った。
「みんな殺されちゃうの。だったら誰かどこかにもう一人隠れてたのね」
すると別の女性が「そうじゃないのよ、その十人以外本当に誰もいないのよ」と返す。女優は気になって内容を聞こうとするけど、結局自分で読む、ということで落ち着いた。

はい、注目!

五種類の本が七冊ずつ。”グリーン家殺人事件”は住人が次々殺されていく話、”Yの悲劇”は一家が惨殺される話。そして”そして誰もいなくなった”は前述のとおり。あと二冊はなんだったのか。タイトルには触れてないけど。
「屋敷で人が殺される話」を七人にインプットさせたかったんだなっていうのはわかる。うーん、あと二冊のタイトルも知りたかったけど、そういう有名な話が思いつかなかったのかしら。すみません、細かい所が気になるんです、私の悪いクセなんで。

で、注目は女優のこの台詞。

「みんな殺されちゃうの。だったら誰かどこかにもう一人隠れてたのね」

さらっと伏線。
でもさらっとしすぎて通り過ぎてしまう。
でもよく考えると、五種類の本が揃えてあるのに、タイトルを出したのは三作品だけだし、内容を掘り下げたのはこの”そして誰もいなくなった”だけ。
これ相当な伏線、その上でこの女優の台詞。っていうか、すごく大事な台詞なんだから読者にスルーさせてはいけない。このセリフが頭の片隅に引っかかったままこの小説を読み進めると面白かった、かも。

ご想像のとおり、”今後起きる出来事”とは殺人事件のことであり、それが芝居なのか現実なのか、という展開になっていくんだけど、ここで第三の人物が登場する。といっても実際に登場するわけでなく、彼らの話の中に出てくる。(この時点ではね)これがどこからどう見ても怪しすぎるわけで。
しかし怪しいけど、その第三の人物が事件を起こすことは物理的に不可能。そうすると見えてくるのは”共犯”の存在。消去法でいくと、自然とある人物にたどり着くんだな、これが。

で、もう予想どおりの展開に開いた口が塞がらなかった。
最初に「コナンかよ」って書いたけど、コナンとは違うな。だって

推理してない。
私と同じく

消去法。


さらに気になったのは、その文章の構成方法。
一人称で語るわけでもない、ごくふつうの小説としての文章なんだけど、
要所要所で「久我和幸の独白」というのがある。
となると、それ以外は「別の誰かが語っているのか」と思えてくる。
「久我和幸の独白」では第三の人物のことは語られているが、
それ以外では台詞以外に第三の人物の名前は出てこない。たとえば「久我和幸はソファに横なった」のような。
となればその”別の誰か”は”登場人物の七人以外の者”ではないかと気づいてしまうのだ。

ということは、あの女優のセリフに巻き戻すと、

「みんな殺されちゃうの。

だったら誰かどこかにもう一人隠れてたのね」

はい。そういうことになるね、うん。

読み進めて、1/4くらいで
これは復讐だろうな、って気づく。
そして”消去法”で共犯もわかる。
この時点で私は
(そんなに悔しかったのか。でも殺しちゃいけないよなぁ)
くらいだったんだけど、
本当の殺害の理由を知って驚愕した。

◆以下ネタバレ◆
彼女は怒っていた。
「演出家の愛人だからあの人は役をもらえた」
「金持ちで金を注ぎ込んだから下手でも受かった」
もう芝居なんかやめてやる!彼女は飛騨高山の実家に引きこもってしまった。そんな中、オーディションで選ばれなかった彼女を、劇団の仲間三人が慰めにきた。しかし彼らは心配などしていなく、体裁のために自宅を訪問しただけということを偶然彼女は知ってしまった。怒りが抑えきれず、彼らの車のタイヤにアイスピックで穴を開けた。立ち往生して困ればいいと。しかし彼らが出発してまもなくすると、自分のしたことが急に恐ろしくなってきた。自分のしたことが原因で事故が起きたらどうしよう!彼らに何かあったらどうしよう!無事に東京へ帰るように祈っていると電話が鳴った。それは急にハンドルが利かなくなって崖に転落し、二人が死亡したという知らせだった。殺人をしてしまった!彼女は自殺をするつもりで近くのスキー場の滑降禁止区域に向かった。そして崖へと消えた。が、死ぬことはできなかった。そこで彼女は二人が死亡したのは嘘だったと知る。タイヤに細工をされたことを知ってた仲間の一人が懲らしめるために吐いた嘘だった。実際は三人に怪我はなかった。反対に彼女は下半身が全く動かない状態になってしまっていた。

で、三人を絶対に許さない!ということで殺人計画を立てたんだってさ。

さて、どこまで元を正せばいいかわからないけど、
私はね、この女性はどうかと思うよ。

まず、役に選ばれなかった原因を他人のせいにしている。
「演出家の愛人だからあの人は役をもらえた」
「金持ちで金を注ぎ込んだから下手でも受かった」とかね。

いや、その考え、

最低ですけど。

そして、

アイスピックでタイヤに穴を開けるな。

大事故になるでしょうが。
怒りに任せてとんでもない行動を起こすとか、
そんな気性の激しい人は、役者じゃなくても使いづらい気がする。
いくら腹が立ったと言っても、やっていいことと悪いことがある。
てか、結局殺そうとするし。

余談だけど、女性がアイスピック程度で四駆の後輪に穴を開けられるかってそのことが気になっちゃったよ。結構大変だと思うけど。自転車じゃないんだから。

この女性は「彼らに悪いことをした」なんて思っていなくて、
自分が殺人を犯したことが怖いのだ。
だから、騙されたと知って、殺害計画を思いつく。
これ、ソシオパスの類ではないか。反社会性パーソナル障害。
おお、なんか別の小説になりそうだ。

でもこの小説、こんな恨みつらみだったら面白かったのかもしれない。
ゲスな話っていうの結構イケると思う。

しかし東野圭吾氏はゲスな話を好き好んで書くタイプではない。ような気がする。
だからゲスにしなかったのだろうが、
これが裏目に出た。
この話を(私が)つまらないと決定的に思ったのは、

実は、

殺してなかった


から。

しかも許している。
許された方も「許された」と思っている。
お互い、目線がおかしいだろ。
最後は参加者七人プラス一人の八人が泣いて終了。

そりゃあ嘘つくのはよくないけど、
そもそもはさ・・・と沼にハマってしまうので、やめておこう。

他にもそのペンションのオーナーやばいだろうってとことか、
そこまでルールにこだわる理由がわからない、とか、
なぜ違う劇団員が一人だけ選ばれたのか、とか。
モヤモヤポイントは多数あるんだけど、
あらすじ自体がすごいんで、そんなもんは指のささくれ程度です。

この3年後、あの名作「白夜行」が刊行される。
そしてさらに9年後には直木賞受賞作品である「容疑者Xの献身」を上梓。
他にも数多くの作品を世に送り出しているが、
私は特にこの二作品が気に入っている。

もし1996年当時、この「ある閉ざされた雪の山荘で」を読んでいたら、
私はこの作家の作品を読み続けただろうか。・・・自信ないな。
当時の批評はどうだったか知らないけど、おそらく絶賛とは言い難かったのではないか。

東野圭吾氏の作品は「愛」がテーマになっている作品が多い。
この作品も「愛」がテーマのように思える。でもトリックやミステリー要素を詰め込もうとしていながら雑な展開になっていたり、気づかれていることに気づかずにいるようななんとも言えない作品になっている。
「この鉛筆、削れてないけど、書けるからいいでしょ?」的な仕上がり。

そして28年が経った。

今間違いなくトップランナーとして活躍している東野圭吾氏。
全ての作品が面白いわけではないが、それでも書き続けていることが
何よりもすごいことではないか。

良くも悪くも
「ああ〜またやられてしまった!」と思う東野圭吾作品。
だからまた私は書店で出会うことを楽しみにしている。


しかしなんで今この映画作ったんだろ。
サブスクにいらっしゃったら観てみるか。





この記事が参加している募集

読書感想文

いただけるなら喜んでいただきます。