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絶望を飼い馴らす――『ちいかわ』スタディーズ序論

 ジクムント・フロイトの精神分析理論はその男性中心主義や異性愛中心主義、あるいはその実証性の欠如といった観点から批判されて久しいが、そのなかでも現代の文化について欠かせない観点を提供している論考として「快楽原則の彼岸」と「喪とメランコリー」が挙げられる。
 このうち、トラウマに関する先駆的考察ともいえる「快楽原則の彼岸」において、孫が糸車をおもちゃにして「オオー(fort)」の掛け声とともに遠くへ投げては「アー(da)」と言いながら引っ張り戻して遊ぶ様子をみたフロイトは、それを幼児が母との別離というトラウマ的な出来事を、母をおもちゃに置き換えて再現し、反復することで、トラウマの衝撃を和らげ、その出来事を自分にコントロールできる事柄として、いわば「飼い馴らす」試みなのではないかと推測する。こうした考え方は日本のポップ・カルチャーに馴染んでいる者にとっては受け入れやすいものだろう、怪獣ゴジラが原爆の、そして東日本大震災のトラウマのメタファーであることは、もはや一般常識と化している感がある。
 さて、この遊びや、物語の機能のひとつに、トラウマ的な出来事を、再現し反復することによって飼い馴らすというものがあるというアイデアは、絶望的な架空世界を描く、いわゆる「ディストピアもの」とも相性が良いように思われる。『1984年』以来、とりわけ社会主義革命を夢想することがまったく不可能となったポスト冷戦の世界において「ディストピア」というジャンルは社会の現状に対する「オルタナティヴなど存在しない」(マーク・フィッシャー)という絶望を消費し、飼い馴らすためのツールとして需要されざるをえない面があった。

 もちろんディストピアものを絶望を描いて終わるのではなく、絶望のなかの希望を描くジャンルとして捉え、その希望を現実の社会を変えていくようなエネルギーへと変換しようと試みる人々は多い。オーウェルの『1984年』についてもトマス・ピンチョンを含め多くの読者がそのような読みを実践してきたし、『侍女の物語』や『請願』の著者マーガレット・アトウッドの場合は、著者自身が物語内容を積極的に、現実の社会における女性の立場をめぐる問題に結び付けるようなパフォーマンスを行ってきた。
 ここで冒頭で言及したフロイトのもう一つの論考「喪とメランコリー」に言及しておきたい。フロイトに従えば「喪」とは(肉親の死のような)ある特定の出来事に対する反応としての悲しみであり、その悲しみがなんらかのプロセス(追悼の式典や埋葬の儀式など)を経て十分に発散されれば、次第に癒えていくのが一般的である。これに対して、悲しみの原因が正確に特定できない場合に生じるのが「メランコリー」の症状である。「メランコリー」においては、症状をもたらす原因が特定できない、または特定できていたとしても、なんらかの事情でそれを表現することができない、が故に、悲しみを癒すための有効なプロセスを講じることが難しく、「なんとなく」悲しく、憂鬱な状態が解消されないままになる。
 ディストピアものが政治的に反動的なのか、あるいは進歩的なディストピアものはあり得るのか、といった問いは、この喪とメランコリーの区別を導入することで整理できるかもしれない。つまり、ディストピアものが、夢物語のように見えて、実はわたしたちが生きている世界についてのコメンタリーとなっているとして、その物語が、絶望を生み出す原因そのものを批判せずに、絶望を「飼い馴らす」ことに終始するならば、それは絶望的な現状を甘んじて受け入れることを是とする「反動的な」物語ということになるだろう。しかし、次の段落で補足するが、現実を生きる私たちはしばしば私たちの絶望がどこからくるのか明確に特定できないのに対して、ディストピアものにおいてはその絶望を作り出す原因が可視化される(絶望の原因が特定されない物語作品も存在するが、それはディストピアものというより不条理文学に分類されるだろう)。すなわち、ディストピアものは、その受容環境がいかに反動的であったとしても、その絶望の原因を特定し、私たちの行き場のない「メランコリー」を、明示された目標を伴う「喪」へと変換させる契機を内在させていることになるのである。

 たった今、わたしは「現実を生きる私たちはしばしば私たちの絶望がどこからくるのか明確に特定できない」と述べたが、これは必ずしも正確ではないかもしれない。少なくとも文化批評を試みるような「私たち」は、何が私たちの絶望の原因なのかを予め「知って」いることが多い。その原因はたとえば、新自由主義とか、男性中心主義とか、レイシズムとか、異性愛中心主義、あるいはそれらすべてが「複雑に絡み合ったもの」だったりしがちだ。しかし社会全体としてみれば、そのような原因特定の理論が、自分の絶望の正体を言い当ててくれているとは感じず、そのような言説からかえって疎外されているように感じる人々も相当数存在する。
 日本における英仏独語圏に関する研究は伝統的に、先進国の良い面を消化して日本社会の改良に役立てることを目的としてきたため、そうした社会の「良い(と思われる)」側面ばかりを紹介しがちだが、アメリカにはトランプやデサンティスを、イギリスにはボリス・ジョンソンやリズ・トラスを、フランスにはマリー・ルペンの国民連合(旧:国民戦線)を、ドイツにはオルタナティヴ・ファー・ドイチュラントを支持する人たちが、一定数存在していることを忘れてはならない。それでも、こうした国々においては、高等教育を受けた人々は、概して、先に挙げたような原因特定の理論に親和的になるようだ。アメリカにおいて大学進学率の高い州の多くが、民主党を支持するブルー・ステートである事実に、それは表れている。

 それに対して、日本では「ねじの一回転」が加わる。つまり、上述の原因特定の理論が西洋由来のものと感じて、そこに疎外を感じるという傾向である。このことが、日本社会を、西洋的な仕方で変革していくことの難しさ一般とつながっていると思われるのだが、とりあえず話を戻すと、それゆえに、日本のポピュラー・カルチャーにおいてディストピアものを社会を変えていくという文法につなげていくことには困難が伴うのである。困難というと、それは克服すべきものであるというニュアンスが伴いがちだが、ここではそのような規範的なニュアンスは括弧に入れておきたい。そして、あえて「原因特定の理論」に対する懐疑には一定の正しさがあるように思われることにも明言しておきたい。搾取や、差別が少ない社会が、そうでない社会より好ましいものであることは確かなように思われるが、そういった問題に取り組むことが私たちの絶望を個人的な水準において本当に軽減してくれるのかは、よく分からない。私が言えそうなのはせいぜい、そのような活動に取り組むことが、個人の幸せを大きく減じることにつながらない社会は、そうでない社会よりははるかに良いだろうということぐらいだ。
 ここからは純粋な仮説となるが、ここに、『ちいかわ』のような「カワイイ」と「ディストピア」の交差するところに位置する作品が広範な支持を受ける土壌があるのではないか。『ちいかわ』は未完結作品であるが故に論じることが難しいが、この作品においてはディストピア的な世界において、しばしば絶望的な状況に追いやられるちいかわたちを「愛でる」ことに主眼が置かれ、そのような世界に対して抵抗したりする可能性は、否定されないにせよ、地平線の彼方へと先送りされているように思われる。ディストピア的な世界と、その世界を変革すべきと説く理論的言説から二重に疎外された人々がゆきつくオアシス――それが『ちいかわ』なのかもしれない。

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