英語リベラルと純ジャパオタクは何故いがみ合うのか?

 日本は日常レベルで政治的事柄を語る語彙が未発達で、政治と分離したところで独自に美学が発達してる感があるが、英語圏では日常会話レベルで政治的な問題をかたる習慣が根付いているがゆえに美学について語る言語もその重力に引っ張られる。乱暴な一般化だと批判されるだろうし、もちろんその通りなのだが、これは口に出して言っていいのではないかと思う。

 英語圏バックボーンの批評と「純ジャパ」* 的なオタクは基本的に水と油の関係にあるが、これおそらく上述のような事情により、文化に関する言語ゲームを行う際に想定する領野が異なるためだと考えた方がよい。表面的に見てイデオロギーやジェンダー観の違いだと決めつけると必ず泥仕合になる。

 とりあえず文化・サブカル関係に限定した文脈の議論という限定をつけさせてもらいたいが、常識的に考えれば、ネット上で「フェミニスト」や「リベラル」を叩いている人だって、日常的なレベルでは普通の人という場合が大半のはずだ。一部の例外はあるのかもしれないが、そういった人々が心の底から攻撃的な信念を抱いているとはとても思えない。ある日突然、外部から持ち込まれたルールによって自分たちのゲームが一方的に変更を迫られているように感じ、そのことについての不安を表明しているのだと考えた方がはるかに納得できる。

 英語圏の人々が自分たちのルールを「国際標準」として認知させることに長けているというのは、多少なりとも政治や経済に気を配っている人にとっては常識だろう。基本的には私は「英語圏バックボーン」の人間だと自認しているし、そのことにそれなりの誇りを持っているが、サディスティックな「自由化論者」になっていないかは日々自戒していきたいと思う。

*純ジャパ:家系が全員日本人であり、海外旅行したことはあっても海外に長期間居住した経験がない人のことを、というよりそのような人々が自称として、このような表現を用いることがあるようだ。やや問題含みな表現かもしれないが、ここでは知的バックグラウンドの形成過程において英米的なものの見方に影響されることが少なかった、という意味で使わせて頂いた。

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