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人を好きになるのをやめたのはいつですか?

これは書こうかどうしようか迷っていましたが、
同じ感覚を持っている人がいそうなので書いてみます。

思春期あたりに人を好きになるのを覚えて、
それから30年以上。

こういう方面では全く成果が上がらない
発達障害モドキの私。
10年以上前から「人を好きになる」という感覚が
自分からなくなっていることに気づいています。

たぶん、リビドーやホルモンの分泌量の減少と
密接に関連しているのでしょう。

成功体験が皆無という歴史からか、
人を好きになって、そのことに対する意思表示をすると
手痛いしっぺ返しというか、
物事がすべて悪いほうに転がるという考えが抜けません。

自分の好意が受け入れてもらえるという幻想があった時であれば、
「あなたのことが好きです」と言える。
それも可能だったでしょう。

前の処世術エントリーでまったく無い、
欠落して欠品リストにもない要素があります。

「恋愛」「結婚」がないのです。
自分の人生にない、存在していないから書きようがない。

そこで自分の中で理屈付けする必要が出てきます。

ここでもとになる考えが

「自分は人に好かれない存在である」
「普通の人にはあるものが、自分にはない」

この2つをくっつけると、

「自分に不足している要素はわからない、
 しかしその要素を手に入れないと人に好かれることは無い」となります。

まるで解けない超難解な数式を、
学習障害の私が解かされているようなものです。

この考えをわかりやすく表現したものが
「空を飛んでいる飛行機を見ながら
 歩いて移動している状態」なわけです。

被害的な表現をするなら、
ほかのみんなは知っている答えを、
私だけが知らない状態のまま放置されているようなもの。

こういう自分のようなやつを、英語でDesperate Singleというそうです。
Desperate は絶望的な、という意味。
そして同じ語源が音楽になったのが、イーグルスの "Desperado"
これはスペイン語かな。

邦題が「ならず者」って・・・
「絶望してるお前」くらいの意味です。

歌詞が素晴らしい。

だんだんと、40歳を越えるころから、
人を好きになることをやめようと自覚し始めました。
自分には絶対に手の届かない世界だから。

もしもそこに手が届いても、
人を好きになっても自分にはそれを維持する力がない。

周りと自分とは違うんだ。
周りの人間関係は厄介ごとを持ってくる存在で、
それを処理する能力(それもかなり不足)しか
自分は持っていないんだと結論付けています。

若いころに一度でも受け入れられればこうはならなかった。
受け入れられるような人間であれば、今みたいになってない。
かなり悲観的な状態ですが、現状は哀れなもんです。

そう考えると、自分にとって
何回も結婚・離婚を繰り返してる人は
特殊能力の持ち主でしかない。

僕がかなうような相手じゃないんですよね。

こんな風に考えている人、いませんか・・・?
少数派なのは自覚あります。

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