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女流噺家初の真打、初代 桂右團治に、新たな噺家の可能性を見た。_「右團治ひとりDE会」in東京・神楽坂「香音里」。

■アットホームな独演会

古民家をリフォームしたイベントスペース「香音里」の高座で。
噺の前に右團治師匠とお話しする機会があったのに、映像許可を取るのを忘れた。

師走の17日(土)、東京・神楽坂に
「右團治ひとりDE会」を聴きに行く。
(社)落語芸術協会に所属する
女流噺家で初の真打、桂右團治師の独演会だ。
演目は「代書屋」「紺屋高尾」、
それに「一杯のかけそば(栗良平原作/
六代 桂文枝作)」の三席。
この日、17時前に京王線が
投身事故で運転停止となって
誘ってくれた大学の先輩が遅れたのだが、
右團治師はそれを知って枕を長めに語って
待つという、何ともアットホームな
空気のなかで始まった独演会であった。

■女流噺家のイメージをくつがえす

ジェンダー平等を無視する訳ではないが、
女流噺家には、女が男を演じる違和感が先立ち
落語の世界の雰囲気が出せないもどかしさを感じていた。
私は宝塚歌劇も好きで、その昔
ある星組・トップ娘役のお茶会にも参加したほどだが、
同じ仕組みを落語の世界に持ち込むには無理がある。
ところが右團治師は、
例えば「紺屋高尾」の主人公・久蔵に親分、
医者の藪井竹庵などの描き分けに不自然さがなく、
スムーズに落語の世界に入っていけた。
またこの噺には親方の女房も登場するが、ここでは
男が演じる女とは異なる、
まさに女が演じる“おかみさん”と出会わせてくれた。

■右團治ワールドの創造

落語が他ならぬ話芸である以上、
そこには語り手(噺家)独自のリズムがある。
そして、そのリズムを心地よいと感じるとき、
そこには独特の「間」が存在するのだ。
(私の知る限りで)遠くは圓生・小さん、
志ん朝・談志はもちろん、当代の
さん喬・権太楼・一之輔に至るまで、
そこに話芸を感じるのは
軽快、枯淡、無骨、飄々、細緻、鯔背(いなせ)と、
それぞれに独自の「間」で言葉を
連ねて、こねて、重ねて、
聴かせるからだ。
       *
右團治師の「間」も独特で、
軽快とは違うが、草書風の何とも
飄々とした味わいのある語り口が、
観客の呼吸を引き付けるような趣があった。
それは最早“右團治ワールド”と
言ってよい特別な世界を
創りあげていると感じた。

女流という冠を外し、
同じ噺家仲間の色合いとは
別の色をまとった、
一人の真打の姿がそこにあった。


                                            

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