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アラ還最後の誕生日に noteを開始。書き溜めた記事、コラムなどを掲載。公開情報として…

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アラ還最後の誕生日に noteを開始。書き溜めた記事、コラムなどを掲載。公開情報としてきちんと文章に残しておきたいものなど。

最近の記事

コラム:香港における白系ロシア人調査(ニュースレターNo.105、2024年4月号)

 昨年末、9年ぶりに資料調査で香港に赴いた。香港におけるロシア人およびその映画表象について調べるためであった。特に1950年代において、数千人の白系ロシア人移民が中国から香港へと流入したという記録があり、80年代までには2万人以上のロシア人が香港を通過したとされるが、詳細は判明していない。  1917年のロシア革命後、祖国を逃れた何千人ものロシア人移民が香港に渡ってきた。いわゆる白系ロシア人は、世界で最も古い難民グループのひとつとされ、主に職人、商人などが多かったようだが、

    • コラム:四日間だけの同一題号での新聞発行 ―占領期京都新聞史の一断面―(ニューズ・レターNo.99、2023年9月号)

       先日、占領期の神戸・大阪・京都の三都の表象をめぐる助成研究がひとまず終了した。筆者も共同研究者の一人として京都、舞鶴の心象地図を作成するため、記憶の地層の掘り起こしに取り組んできた。先行研究を概観する中で、占領期京都の夕刊紙競争があまり注目されていないことに気付いた。  占領期の京都では、京都新聞系の『夕刊京都』のほか、読売系の『京都日日新聞』、朝日系の『都新聞』も誕生して、「新興夕刊紙が三つも発行されるにぎやかさ」であった(京都新聞百年史)。その後、1950年代には、戦前

      • コラム:四年ぶりのアメリカ国立公文書館訪問(ニューズ・レターNo.93、2022年11月号)

         今年の夏は、アメリカ国立公文書館(NARA)へ、2018年以来、4年ぶりに訪問した。戦後のソビエト文化の流入・受容が目下の研究テーマであるので、当初の計画ではロシアの公文書館へ行くはずであったが、ウクライナとの戦争でロシアへの渡航もままならぬ状況であったので研究予定を前倒ししての渡米であった。以下に、今回のNARA訪問で変化がみられた点について思いつくままに記してみたい。  3年間にわたるコロナ禍は、NARA関係者においても深刻な影響を与えることになったようだった。公式には

        • コラム:ロシア公文書館利用ガイド(ニューズ・レターNo.82、2021年8月号)

           新型コロナ感染が日本国内で見つかってから約一年半、いまだに感染拡大が止まらない。例年なら夏休み中は資料調査で海外へ足を運んでいるときでもあるが、まだまだ海外渡航は厳しい状況にある。もとより海外の資料館、公文書館の利用ガイドの類を出発前にながめるのは楽しい。実際に足を運べなくても、行く先々への旅の気分は味わえるし、未知なる資料との出会いにイマジネーションを巡らせることもできるからである。  筆者の場合、ロシアでの資料調査が目下の主たる課題である。これまでも、富田武(1995)

        コラム:香港における白系ロシア人調査(ニュースレターNo.105、2024年4月号)

        • コラム:四日間だけの同一題号での新聞発行 ―占領期京都新聞史の一断面―(ニューズ・レターNo.99、2023年9月号)

        • コラム:四年ぶりのアメリカ国立公文書館訪問(ニューズ・レターNo.93、2022年11月号)

        • コラム:ロシア公文書館利用ガイド(ニューズ・レターNo.82、2021年8月号)

          コラム:コロナ禍から一年(ニューズ・レターNo.77、2021年2月号)

           新型コロナウィルス(COVID-19)による感染症が世界中を覆いつくしてから約1年となる。およそ100年前、1918年頃からA型インフルエンザ「スペイン風邪」が世界的に猛威を奮い、内務省統計によれば日本では約2300万人の患者と約38万人の死亡者が出たと報告されている。日本でのスペイン風邪感染は第3波が到来した1918年から1920年頃まで続いたという。  ちょうど演出家・土方与志の妻・梅子の自伝を読んでいたところ、婚約中だった与志と梅子の二人が1918年11月3日、突然、

          コラム:コロナ禍から一年(ニューズ・レターNo.77、2021年2月号)

          コラム:戦後75年と日米安保60年(ニューズ・レターNo.71、2020年6月号)

           ちょうど60年前、日本は日米安保反対デモという戦後最大の政治運動の渦中にあった。安保改定のデモが幾重にも国会議事堂を取り囲み、岸信介首相による日米安保条約改定は激しい反発を生んだのであった(日高六郎編『1960年5月19日』)。  今年は戦後75年でもあるが、同時に1960年安保から60年目の年でもある。ちょうど2年前の本コラム「1968年から50年 昔といま」(ニューズ・レターNo.54、2018年6月)でも書いたように、1960年は同時代としてまだ物心が付く以前の頃であ

          コラム:戦後75年と日米安保60年(ニューズ・レターNo.71、2020年6月号)

          コラム:ロシア公文書館を初訪問(ニューズレターNo.67、2019年12月)

           今年の夏、資料調査でロシアの公文書館へ行ってきた。これまでもアメリカ国立公文書館(NARA)へは何度も足を運んできたが、近年、戦後日ソ文化交流史をテーマに研究を進めており、いつかモスクワの公文書館へ調査で赴きたいと考えていた。念願かなって、9月に出張で訪問することができたので、その利用手続きを簡単に紹介したい。ただし、モスクワにはいくつもの国立公文書館が存在するので、ソ連共産党関係文書を所蔵するルガスピ(ロシア国立社会政治史文書館)、連邦政府文書を所蔵するガルフ(ロシア連邦

          コラム:ロシア公文書館を初訪問(ニューズレターNo.67、2019年12月)

          コラム:専修大学カストリ雑誌コレクションを見てきて(ニューズ・レターNo.62、2019年6月号)

           4月、専修大学生田キャンパス図書館で開催されていた春の企画展示「時代にゆれた表現の自由- 江戸から平成、そして〇〇 -」を観てきた。会場では、江戸時代、戦前、戦中、戦後から現在まで、規制に翻弄されながらも出版された多くの資料が展示されていた。中でも、初出品となる「カストリ雑誌コレクション」に注目していたこともあり、ちょうど大学関係者に誘われたこともあり、足を運んでみた。  2000年代初頭から、筆者も20世紀メディア研究会の占領期雑誌研究会で雑誌研究に取り組んできたのでカス

          コラム:専修大学カストリ雑誌コレクションを見てきて(ニューズ・レターNo.62、2019年6月号)

          コラム:大学生への雑誌教育の必要性(ニューズ・レターNo.58、2018年12月号)

           毎年、大学の授業で出版論、出版メディア論の講義を担当していて、ここ数年考えることがある。授業で「雑誌に興味がある人」と聞くと、予想以上に多く手が上がる。専門の授業であるので、関心の高い学生が多いのは当然としても、気をよくして購読雑誌があるかと問うと、とたんに手が上がらなくなる。雑誌に興味があっても購読して読んでいるかと言えば、そうでもない。雑誌に対する興味や編集者への憧れは残っているものの、雑誌を積極的に購読している学生は極めて少ない。このようなズレがなぜ生じているのか。漠

          コラム:大学生への雑誌教育の必要性(ニューズ・レターNo.58、2018年12月号)

          コラム:1968年から50年 昔といま(ニューズ・レターNo.54、2018年6月号)

           今年は明治維新150年の年であるが、同時に1968年から50年目の年でもある。この時代の意味は何だったのかと大仰にかまえるつもりもないが、ちょうどそうした「1968年」を舞台とした庄司薫原作の映画『赤頭巾ちゃん気をつけて』(1970年、東宝)がリバイバル上映されていたので観てきた。上映していた映画館の連続企画のキャッチコピーは、「70年代の憂鬱 ―退廃と情熱の映画史―」である。1ヶ月間、作品17本を連続上映するという企画でその第一回目上映が本作品であった。  当時、東京郊外

          コラム:1968年から50年 昔といま(ニューズ・レターNo.54、2018年6月号)

          コラム:周年記念とメディア史(ニューズ・レターNo.45、2017年4月号)

           来年2018年(平成30年)は、明治維新から150年ということで一つの画期であることはまちがいない。もちろん、こうした区分自体には意味はないのだが、今年はロシア革命から百年目であるし、最近数年間は出版社の創業百周年記念のオンパレードでもあったように、このほかにも周年記念を探せば沢山あるはずである。  作家・堺屋太一が、『朝日新聞』に連載小説「平成三十年」を執筆したのが1997年(平成9年)のこと。平成30年は、一つには明治維新から150年であり、この年は太平洋戦争の敗戦から

          コラム:周年記念とメディア史(ニューズ・レターNo.45、2017年4月号)

          コラム:幻の戦前宣伝雑誌『グラフィック』(1936-41)を探して(◆ニューズ・レターNo.40、2016年10月号)

           雑誌『グラフィック』は、1936年、IPR(太平洋問題調査会)ヨセミテ会議終了・帰国後に、尾崎秀実と共に会議に出席した西園寺公一の創刊したアジア情報誌(戦後の『世界画報』の前身)であり、版元の創美社は、西園寺が社長、名取洋之助、濱谷浩らを写真で登用、尾崎もたびたび寄稿するゾルゲ事件にとっても重要なグラフ雑誌である。  「『アサヒグラフ』を進歩的にしたようなもんです」というマルクス主義経済学者による回想(杉本俊朗)もあるが、雑誌全体では、B4版の大型グラフ雑誌、写真が半分、記

          コラム:幻の戦前宣伝雑誌『グラフィック』(1936-41)を探して(◆ニューズ・レターNo.40、2016年10月号)