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教養としてのナントカ

散歩コースには必ず本屋がある。というよりも、本屋を散歩するのが好き。個性的な書店や充実した図書館、そして本を読める静かなカフェや公園のある街にいつも住んでいたい。

書棚を見渡すと、最近よく目にするのが「教養としての○○」という本。「教養」、割と好きな言葉なのだけど。改めて、教養ってなんだろう。

これまでの人生で出会った、深い教養を感じさせる人々を思い出す。
人生を楽しむ人に特有の朗らかさ。
飽くなき好奇心。豊かな言葉。
独自の世界観を、個性としてまとう。

その世界には憧れてやまないが、教養は身につけようと意図して身につくものではないとも思う。だからこその憧れ。

彼ら「教養人」は、ただ心惹かれる何かに耽溺し、熱中し、こどものように遊ぶ。
彼らは想像力の翼で自らの王国を飛び出し、自在に旅を楽しみ、より広い世界のことをも理解してしまう。
あくまで好奇心と探求心の結果としての教養。しかし、はからずして育まれたその教養が、知性の源泉となっている。そんな人々。

「教養としての〇〇」濫造は、教養を「話のネタ」や「ビジネス上の処世術」に矮小化するようで気になるのだ。

(これに限らず、書籍や記事のタイトルに乱暴でワンパターン(○○したけりゃ○○するな、とか)なものが多いこと、さらにはタイトルと内容が一致していないものまであることが、気になる。作家の意志は尊重されているんだろうか。インパクト優先の安直なタイトルの本が良書だったりすると、かえって勿体ないと感じる。)

その一方で、やっぱり興味のある領域の「○○」があると、手に取りたくなるお手軽な自分…出版側の事情も、分からなくはない。

教養を身にまとう日は遠い。

(おまけ)
私の考える「教養人」について語ったときに、その定義に何となく影響を与えていそうに思われた本たち。無意識下には他にもありそうだけど、ひとまず最近読んだものの中から。

『RANGE 知識の「幅」が最強の武器になる』 デイビッド・エプスタイン
『「具体⇔抽象」トレーニング』 細谷 功


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