生産性にも効率にも背を向ける
近頃は、猫も杓子も生産性だ。
効率化だ。競争力だ。
しかし私は、それらのものに背を向けようとしている。
サラリーマンをやっていれば毎日のように生産性を問われ、また自分が周囲にそれを強いざるを得ない場面すらある。
辟易している、というのが正直なところ。
仕事としても十分に取り組んだし、そろそろ、もういいかなと思う。
いやでも必要なタスクは最少の労力でこなしたいし、物事がテキパキと片付く気持ちよさもある。しかし一事が万事「生産性向上!」一辺倒では追われるようで息が詰まるし、何より面白くない。
効率化によって何をしたいのか?結局、肝心なのは「生き切る」こと。
私はこの大切な人生の一秒一秒を、存分に味わい尽くし、贅沢に楽しみたいのだ。
たとえば、オーケストラ。
たったひとつの音楽を奏でるために、鍛錬を積んだ演奏家を数十人から動員して取り組む。ひとりの奏者がある瞬間に発する音は、基本的にはひとつだけ。生産性や効率とは無縁の世界だ。
たとえば、手前味噌。
工場生産物は知らないが、家庭で作る味噌は発酵のプロセスを端折ることが出来ない。移ろう季節と時間を呼吸し熟成した味噌、麹の生命力を内包したその奥深い味わいは、効率を求める暮らしからは得られない。ほんと美味しいよ。
たとえば、ヨガ。
ひたすら自分の呼吸と身体に向き合い心を鎮める。何も生まない、何のためでもない、ただそれをやるためだけにする営み。
かつて携わった音楽制作の仕事。録音のプレイバックは効率化できない仕事だった。早回しで聴いては意味がない。全身を耳にして、収録時間と同じ時間をかけてじっくり聴くことを何度も繰り返した。アルバムならば曲順はベストか、曲間の長さに違和感はないか…思えば贅沢な仕事だった。
今は配信で一曲ずつ買えるようになり、サブスクで聴き放題になり、レコーディングも発表も誰もが簡単に出来るようになり。それには良い面もあるけれど、引き換えに何かを失った感じは拭えない。
いわゆる要約本も、読むべき本を効率的に見つけるにはよいと思うが、それで終わってはもったいない。「タイパ」などと言って、再生速度を上げて映画を観る向きもあると聞くと、驚くほかない。アートには、効率という概念は馴染まないのだよ。
ゆっくり考える。
すべての瞬間を、じっくり楽しむ。
浅薄な多くのものより、数少ない豊潤なものを、完膚なきまで味わい尽くす。
私は、そういう道を選ぶ。
ひとりの自由な人間として。
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