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第1話 「宙に病」まっ盛り

はぁ~。

パタリ。と読みかけの小説を閉じた。

本屋で見つけたミステリー小説。帯には「オチがすごい」と書いている。

選んだ時には、わくわくしたけど、数ページ読んだ時点で”オチ”がわかってしまった。読むことを止めるわけではない。この先、読み進めたときに、その予想を裏切ってくれる可能性は大いにある。しかし、もし、裏切られなかったらどうしようか。その作者の考えることは、開始数ページでわかってしまう。それは悲しいことだ。

オチを予想することは、あることに気が付けば、さほど難しいことではない、と私は考えている。作品を創った作者は人間であるからだ。多くの本を売り出す作家というのは、読み手の気持ちを想像する。そのため、作者が求めていることは、読者がおもしろがってくれることであり、読者が読んだときに、読者の考えるペースに合わせることと、その中でも意外性をもたせることで、おもしろい作品ができあがる。そのため、ストーリーの本質部分さえ、見えてしまえば、どのようなオチが来るかは容易に想像できるってワケだ。よく話題になっている、伏線回収系も同じことが言える。ただ、未だに青山先生の『名探偵コナン』は誰が黒幕なのか、想像できないからおもしろい。もし、青山先生も誰が黒幕かわかってない状態で描いているなら、もっとおもしろいだろう。

少し自己紹介をしよう。私の名前はK。著者と呼ばれるには無名だが、読み物を趣味で書いている。表現者の端くれとして、生きているという自負はある。「読み物を書く」この行為の本懐は、完璧には相手に伝わらない自身の考えを、文章という不完全な媒体で、どれだけ相手に伝えるか、であると考えている。だから、私は工夫する。伝わるように、共感しやすい表現を使い、時に惹き込ませるための強い言葉を使い、多くの人が楽しめるように短く、さらにはジョークも挟む。こうしてできた作品を読んでもらい、相手が話す感想の中で、私の考えが  1/10  でも伝わっていれば、満足できる。

しかし、読者のことを考えて創る作品というのは、正直、骨が折れる。この行為は、私の考えをストレートに表したものではなく、捏ねくり回して、人に伝えてもいい状態にしたものを出すからだ。私は、もっと小さな子どものように、駄々をこねたい。お店だろうと、お葬式中だろうと、駄々を捏ねられるくらいの胆力、いや、周りに無知になり、そのままを表現したい。しかし、そんなことをして許されるのは、実力が周りに認められているトップアーティストや、トップアスリート達であり、彼等もまた、相手を考えてその立場へ立った人物なのだから、周りに無知になれるはずもないのだ。

閉じた小説を目にし、我に返る。

傲ってるよなぁ。

まるでこの社会の理を全て知った気になっている。実際に私に足りないモノがあるなら、教えて欲しいとさえ思っている。これは、傍からみれば"厨二病"だ。それも、芳ばしい方の。自分を勘違いしてしまっている方。しかし、それは見た人の見方の1つに過ぎないのだ。"厨二病"の可能性は、自分を信じてやまなかったライト兄弟のように、宙に翔ぶことだってできる。宙の熱に罹られた"厨二病"、
それは"宙に病"と呼んでも、差し支えないだろう。

小説を読み終わり、私は書き物を続けるかどうか、悩んでいた。読み手に共感してもらいたいと思うほど、自身の考えは普通の人の感性とかけ離れていくから、身の回りにいた人には、何を言っているのかわからないという目で見られてしまう。正直、辛い。私が考えたものを、納得してもらうために、一個先まで考えていたものを、1つ前の結論に落ち着かせるのがしんどい。しかし、人間、社会的な動物だ。「出る杭は打たれる」と言われるが、今でも、妥協点を探し、打たれているのに、これ以上、打たれるわけにはいかない。

仕方ない。書こう。

私は好きで書き物をしている。続けた先のことは、予想はつくけど、本当にそうかはやってみないとわからない。そうであれば、"実力"が、せめて、多くの人に認められるまで書き続けるしかない。私の文章で、読み手が愉しくなることが、私にとっての"宙"なのだ。

Kはパソコンを立ち上げ、考えたものを文章へ書き綴った。

続く…

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