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『いわき時空散走フェスティバル23』小川郷ツアー

『いわき時空散走フェスティバル』3日目。11月25日(土)は、小川郷エリアを巡りました!今回の小川郷ツアーを一緒に巡ってくれた”いわき時空散走サポーター”は、櫛田啓子さんです!

啓子さんは、小川郷の偉人のうちの一人、櫛田民蔵の親戚(弟の孫)にあたります。また、「さくらんぼ保育園」の2代目の務めた後、現在は櫛田民蔵の生家にて「芽吹きの原保育園」を運営されています。

小川郷エリア『いわき時空散走サポーター』櫛田啓子さん

この日は、冷たい風が吹き気温も急にグッと下がりました。時空散走メンバーも小川郷駅前でカイロを張り合い、手袋を装着し、入念に防寒対策をして、参加者の皆さんを待ちます!

サポーターの櫛田さんは自分の自転車を持参!実は、啓子さんはいわき時空散のリサーチで約40年ぶりに自転車に乗ったのですが、それをきっかけに自転車にハマり、自分とお孫さんの自転車もノレル?でご購入いただきました!

小川郷駅前で集まっている様子、参加者らが円になり、自転車が並べられている
小川郷駅前で集合している様子

「学生以来乗っていないから…」「この歳ではもう乗れない…」と思われがちですが、自転車は歩くより体への負担が少なく、意外と体も乗り方を覚えているもので、意外とすんなり乗れたりします…!

また、どうしても乗れないという方のために、タンデム自転車もあります!
タンデム自転車は2人乗りの自転車で、前に自転車に慣れているパイロットが乗ってくれるので、前の人に身を任せ、後ろでペダルを漕ぐだけでいいのです!

今回の小川郷ツアーでも、1名自転車に乗るのが久しぶりで不安ということでタンデム自転車が活躍!ツアーが始まる前に、パイロットと発進・停止のタイミングなどを確認したり、感覚を掴んでもらうために実際に少し漕いで練習しました!

タンデム自転車を練習する様子
タンデム自転車の練習風景

ー 100年愛され続けた小川郷駅舎

小川郷駅に参加者たちが集まり、出発前に小川郷駅舎で企画説明と自己紹介を行い、ツアーがスタート!参加者には、啓子さんの同級生や同僚、友人など小川郷に深く関わりのある方々が集まりました!

小川郷駅は、100年以上の歴史を持つ木造駅舎なのですが、建て替えが決定し現在工事が進められています。

今回のツアーでは、ぎりぎり駅舎は残っていましたが中は資材置き場となり、駅舎とホームを繋ぐ地下道の壁は、飾られていた地元の子供たちが描いた絵が取り外され真っ白な壁になっていました。

小川郷駅のホームまで行き、少しずつ変わっていく小川郷駅の姿に地元の方たちは寂しそうな表情でした。

小川郷駅の地下道 壁には飾られていたものが外された跡がある
小川郷駅の地下道

また、小川郷駅から見える景色は、今と数十年前ではだいぶ違ったそうです。

磐城セメントが「頁岩」と言われるセメントの原料を輸送するために平上平窪字大沢の駒込粘土山から小川郷駅まで約4キロの距離を、空中ケーブルで繋いでいました。時速約3キロでゆったりと流れている空中ケーブルが小川郷の風物詩だったそう!

小川出身の参加者からは、「空中ケーブルの真下にあった知り合いの家は、毎日ガラガラ、ゴロゴロとうるさかった」というエピソードも。また、昔は小川郷駅に売店があり、新聞やお菓子、おつまみ、お酒も買えたそうです!

時が経つと建物が変わったり無くなったり、故郷の景色も変わっていく。今見ているこの景色も数十年後にはまた変わっているのかもしれませんね。

小川郷駅に停まる電車と紅葉した山々
小川郷駅に停まる電車と山々
小川郷駅舎前で全員で記念撮影
小川郷駅前で記念撮影

ー 小川郷のキング

そして、自転車に乗っていざ出発!最初に向かったのは、小玉小学校の隣にある『小玉米穀店』の前です。皆さんは、『ライス・キング』と呼ばれた国府田敬三郎という小川郷の偉人をご存じですか?

国府田敬三郎さんは、小玉小学校出身で差塩小学校の校長を務め、その後実業家を志し、渡米。そして、カルフォルニアにて日本人で初めて米作に成功した方です。『国宝ローズ』という品種で成功し、『ライス・キング』と呼ばれるようになりました。

参加者の中には、国府田敬三郎さんが亡くなる少し前に、教壇に上がって話してくれたのを覚えている方もおられました!

また、敬三郎さんの孫にあたるロスさんが今もアメリカで『国宝ローズ』を育てており、生産・販売されています。そのお米で作った日本酒がマルトで販売されてた時期もあったそうです!!

マップと資料を見ている参加者たち
マップと資料を見ている様子

小川郷エリアでは、まだまだ偉人がたくさん登場しますよ!

次に向かったのは、磐城霊山萬霊廟。地元の方たちもこの場所は知っていたけど、こんなにじっくりと見たのは初めてとのこと!

萬霊廟とは、『山林王』と呼ばれた田久彌七さんが建てた場所であり、有縁のみならず無縁の方々の骨も供養されました。彌七さんは地域の田畑のために植林をしたり、赤井村と永井村(三和町)を繋ぐ永井道路を作った方でもあります。ツアーの前日に、陸奥さんと寺澤さんは実際に永井道路の場所を確認しに行っており、その時の写真を見させていただきました!

萬霊廟の前で説明を聞いている様子
萬霊廟

また、彌七さんの娘であり、萬霊廟の住職をしていた三井子さんの等身大像があります。三井子さんは磐崎小学校の教師でもあり、教団の上で亡くなり、薩摩琵琶『教団の落花』が作られました。とても地域の方々から慕われていたと言います。

三井子さんの等身大像、前で手を重ねて佇んでいる
三井子さんの等身大像

参加者の間では、
「昔はもっと大きくて、敷地内でよく遊んでた。」
「あっちに2つ池があったよね?」
「石造りの建物だったよね。ここに納骨されていて・・」
と、子供も頃の思い出トークで盛り上がりました!

ツアー主催側より参加者の方が喋る、これが「いわき時空散走」のツアーで目指している形であり、他とは違う面白い部分だと思います。

次に、田久彌七さんの生家に立ち寄ることに!まず門構えや庭からとっても立派なお家で一同驚き…!

リサーチの時に、彌七さんがなぜ萬霊廟を作ったのかや、なぜ植林産業をやることになったのかを、書生さんに書かせた資料を、ご子孫の耕一郎さんに見させていただきました。

今回のツアーではその時の写真を皆さんに見てもらいました!2019年の台風19号の時に川が氾濫し、水につかってしまった資料もありましたが、文字で書かれた資料は解読が可能な状態で保管されていました。中には、彌七さんの直筆の資料も!貴重な資料を見させていただきありがとうございました。

田久彌七さんのご子孫の方が話している様子
田久彌七さんのご子孫の方

ー「俺が白鳥を呼んだ。」

次に向かったのは、白鳥の飛来地!白鳥は、毎年この季節になると飛んできて風物詩でもありますよね。

実は、白鳥をここに呼んだ人がいるのを皆さんご存じですか!?リサーチで川の近くに住んでいる小川郷に詳しい方に話を伺った時に、「俺が白鳥を呼んだ。」という話があったのです!

高台の家の舌の川に集まる白鳥たち、写真に写っているだけでも30匹以上
白鳥飛来地

その人によると、空に白鳥が飛んでいるのを見つけて、最初はフリスビーのように食パンを投げて餌付けをしていたそうです。

それから、毎年お米を20俵くらい撒いているとのことで、この日も川にはたくさんの白鳥が泳いでいました!

戻る時には、白鳥を見に来た親子とすれ違い、ある人の一つの行動をきっかけに、地域の方たちにとって毎年の楽しみになっているんだなと感じました。

土手をあるツアー参加者と、すれ違う親子
ツアー中の歩いている様子

そして、その対岸にあるのが大堰神社です。小川江筋の取水堰に祀られている神社なのですが、江筋について、小川郷ツアーの参加者でありサブサポーターである松本恵美子さんが説明してくれました!

「大堰神社がある場所の脇のところから川の水が分かれて、そこから水が平方面に向かっています。私は、今嫁ぎ先が草野なんですけど、平・草野は水がなくて、田んぼができなかったんです。でも、この堰のおかげで水が来るようになって、お米が作れたんです。」

この水路ができたおかげで、現在でも多くのいわき市民が生活できているのですが、この小川江筋を起工した澤村勘兵衛という方は、切腹を命じられて江筋の完成を見届けられずに自害したと言われています。

小川江筋の説明を説明看板と共に寺澤がしている様子
小川江筋

次に、小川中学校にある櫛田民蔵顕彰碑を見に行きました。

櫛田民蔵とは、小川生まれのマルクス経済学研究の先駆者です。1977年に、顕彰碑は建てられました。

サポーターの櫛田啓子さんは、櫛田民蔵の弟の孫にあたります。啓子さんが生まれたころには、民蔵は亡くなっており面識はないそうですが、民蔵の妻である櫛田ふきとは面識があり、ふきさんのお話を聞かせていただきました!

ふきは民蔵の死後、女性社会運動家として活躍し、1999年には100歳の高齢でありながら車いすで銀座デモに参加しています。啓子さんは、「ふきおばは年を取るごとに美しくなっていた」と話し、ふきさんの結婚当初(18歳)の写真と、100歳の頃の写真を見比べると、顔つきが全然違い、「確かに、100歳の頃の方が綺麗!」と参加者の方たちも驚いていました。

櫛田民蔵顕彰碑、黒くて長方形
櫛田民蔵顕彰碑
櫛田啓子さん、資料を見ている
櫛田啓子さん

ー 啓子さんが目指す保育と教育

最後に、芽吹きの原保育園に行き、啓子さんからお話を聞き、貴重な資料なども見せていただきました!

啓子さん:この家に生まれて小、中、高と学生の間、ずっと自己肯定感が持てなかった。それで祖父が亡くなり、その時につっかえていたものが取れて気持ちが楽になり、「家を出ていいんだ」って思った。

でも親に反対されて無理矢理出ていったので、家出みたいな形になってしまって。アルバイトしながら、学校に行って保育を選んだわけです。東京には、櫛田民蔵の家だと知っている人は誰もいないし自由だと思ったのに、面接したところにまさかの親戚が勤めていて、「櫛田さんっていわきの方ですか?」と言われ、「なんで…」と思いましたね。やっと自由だと思ったのに

啓子さんは、どこの保育園にいってもピンと来ず、自分が求める保育の形を何年も探し続けました。そして、22歳の時に『あすを拓く子ら』の本を読み、さくらさくらんぼの保育に出会ったそうです。

そこからさくらさくらんぼの保育にのめり込み働いている中、保育園の25周年のパーティーで、櫛田ふきと偶然出会ったとのこと。

櫛田啓子さん、口に手を当てて笑っている
櫛田啓子さん

啓子さん:ふきおばさんとの再会から、署名運動やカンパを手伝ったり、カバン持ちをやることも。でもやっぱり保育の仕事を続けたいと思って、定年退職までさくらんぼで仕事して、自分にできることはこれしかないと思い、この家で保育園を始めました。

家を改修して、駐車場を作って、最初の1年は無認可で、2年目は役所の人に認可取りませんかって声かけてもらって、家庭的保育事業ってことで定員5名でやっています。

寺澤:啓子さんとは、時空散走が始まる前から実は出会ってたんです。『夢見る小学校』という一般的な学校とは違い、「プロジェクト」とよばれる体験学習の授業を通じて、自分たちでプロジェクトを運営し自らの頭で考えることにに重きを置いている学校のドキュメンタリー映画があって、それを見てさくらさくらんぼ保育の次につながるような小学校を作りたいという計画があり、その話し合いに以前呼ばれていったことがあるんです。

それで、小川郷のリサーチで再会して、その時にふきさんとの関係や他にも色々お話を聞いたり、夢見る小学校のようないわきに子供達のことを考えた教育環境を作るプロジェクトも引き続き応援したいと思っていました。

啓子さん:たまたまさくらさくらんぼ保育をやっていた人間が、夢見る小学校の映画を見た時に、さくらさくらんぼの延長線上のような小学校だなって思ったんです

自分の子ども3人を、さくらさくらんぼで育てたけど、小学校に上がる時にやっぱり普通の義務教育の公的教育に最初は入れたくないって思った。違う教育を受けられたらいいのにって思った。

でもそれから月日が経って息子も大人になって、忘れかけていたころに夢見る小学校の映画を見て、その時の思いが蘇ってきちゃって。このままではいけない!やっぱりこういう学校を作っていけたらいいなって思って、芽吹きの原保育園主催で、映画の上映会をやったら100人ぐらいの人が集まったんです。

そこに集まった人の中から実行委員が立ち上がって、今は月に1・2回集まって会議しています。

ー ふきが残してくれた女性の自立

寺澤:以前の話し合いに参加した時に、お母さんたちや、子供に対して思いを持っている人たちが、今の学校教育は十全ではないんじゃないかと。これだけ社会が厳しい状況になっている中で、何があっても生き抜ける子ども、人に育っていくかということをすごく考えているんだなと感じました。

大変だとは思うんですけど、そういう思いがある人達が集まっていること自体がすごいことだと思います。あと、女性のパワーが集っている場っていうのは、最初からインスピレーションがあって、そこにふきさんが接続されていくのが物語として感じられたし、きっと続いていくと私は思っています。

縁になって床に座り櫛田啓子さんの話をみんなで聞いている様子
櫛田啓子さんの話を聞いている様子

啓子さん:やっぱりふきおばを見ていると、18で何もわからないまま結婚して子供を産んで、夫の研究の邪魔をしないために、子供を騒がせないように面倒を見て、何もわからないで妻をやってた。その女性が、夫を亡くして、子供を抱えて必死に働いてどうにか生活してたわけだよね。

それでたまたま、宮本百合子たちとの出会いがあって、その婦人運動にあなたのような普通の女性が運動に関わっていくことが大事なんだと言われて、それからどんどん婦人同の中で生きていく。民蔵が元気でもっと有名になっていたら、経済学者の奥さんとして生きてたわけだから。

だけど未亡人になって、女性はこれじゃいけない、経済的にも精神的にも自立しなきゃいけないって思ったから、この生き様を選んでったんだよね。こう考えると、やっぱり人間の一生って一緒になる人との出会いですね。出会う人によってかなり左右されるよな、と思います。

啓子さんからの言葉はどれも力強く、心が熱くなりました。

今回の小川郷のツアーは、過去の偉人たちが成し遂げてきたものが、現在でも私たちの生活に残り続けており、それがあったから今私たちは生きているということを強く体感するツアーだったと思います!

小川郷のそんな土地柄に、勇気づけられたり背中を押される人もきっといるはず…小川郷にまだ行ったことがない人は、ぜひ次回のツアーに参加してみてはいかがでしょう!お楽しみに~!」

櫛田ふき直筆の『子どもは宝もの 未来の主権者』と書かれた色紙が部屋に飾られている
櫛田ふき直筆の『子どもは宝もの 未来の主権者』

文章:井上栞里(NORERU?広報)
写真:鈴木穣蔵



いわき時空散走フェスティバル23レポートはこちら


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