幸せであることを認める

 啓発チックなタイトルで気恥ずかしいが、毎日が楽しい。

色々と自分の周りの環境について考えていたが、家族・友人・知人など、関わりあうにおいてストレスが一切なく、主張すべきはし、引くべきところは引く構図がこんなに健康的に叶っている状況は、周りを見ていてもなかなかに稀有だなと思っている。依存性がまったくないというか、対個人と仲間的関係性のバランスが奇跡の均衡を保っているというか。

 そうした環境でさえも、慣れると人はどうしても軽視してしまいがちになる。一つ環境が叶うと、"それが前提にありき" というフィルターが働き、恵まれた環境はひとまず置いといて、さらに手を伸ばした先の悩まなくて良いことに対して当然の義務のような感情を抱き、わざわざ苦痛を味わいに行ってしまう。相補性により整った環境を「ひとまず置く」こと自体が大きなパラドックスであり、自他に対してある種の無礼でもあるのだ。

これはきっと、どこかに「そう上手いこと世の中はいかない」だったり、「きっと大きなしっぺ返しがくる」みたいな、保険的にかける用心の度合いが飛躍してしまっているから。予防線を張りたがる生来からの気質が、どうしても定期的に頭を覆うからかも知れない。


 幸せな気持ちをちゃんと「幸せだ」と結ぶことは、きっと今の自分においてとても大切なことなんだろうな。いい加減認めよう。幸せであることを。

今日はこんなところで。


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