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【短編小説】だって人妻

 月曜日の夜、めったに着信することのないケータイが突然鳴った。知らない番号だったが恐る恐る出てみた。
「あっ、あたし、わかる? 旧姓井川美月で~す」
高校時代、クラスのほとんどの男子の憧れの的だった、そしてオレが3回コクって3回フラれた美月の声だ。
「なあ、明日ヒマやったらデートしようさぁ」
えっ、彼女は同じ会社の男と結婚して、帯同休暇というのを取って旦那の赴任先のマニラに住んでいると聞いていた。デートって、相手は人妻だぞ。だいたい、なんで京都にいるんだ? 離婚? なぜオレは火曜日が休みだと知っているんだ、そんなにオレに興味があるんだとしたら、恋愛に恵まれなかったオレにもチャンスが巡ってきたのかもしれない。いやしかし、下手に人妻に手を出したら悲惨なことになるかも。2秒ぐらいの間にオレの頭を驚きとわくわく感と不安が駆け巡った。
「うん、明日やったら何時でもええで。でも、なんで・・・・・・」
「ほな、地下鉄の蹴上(けあげ)の駅の改札で10時に待ち合せな。じゃあまた明日」
「えっ? 蹴上って・・・・・・」
オレが聞き返す間もなく、電話が切れた。
蹴上って、どこへ行くねん。駅前にある高級ホテルでおごらされるのか? と不安になった。
 翌日、朝から貯金をおろして、改札前で不安な気持ちで待っていると、10時ちょうどに美月がホームからエスカレーターで上がってきた。
「久しぶり、ほな行こか」
「あっ、久しぶ・・・・・・」
オレが言い終わらないうちから、美月はさっさと地上へ続く階段を昇りはじめた。後を追うだけで動悸が激しくなりそうなのに、キュロットスカートからすらりと伸びる、適度に筋肉が付いたふくらはぎが目に入ると余計にドキドキする。彼女はこちらを振り返ることもなく、すたすたと歩くと、左へ曲り三条通沿いの鳥居をくぐった。日向大神宮と書いてある。大神宮? クルマでは何度もここを通っているが、神社があるなんて気が付かなかった。

三条通沿いにある一の鳥居

「ひむかいだいじんぐう」と読むようだ。大神宮というご立派な名前の割には気を付けていないと見過ごしてしまいそうな目立たない鳥居だ。だが、その佇まいはなぜか神秘的に感じられる。琵琶湖疏水を渡ったところから見える参道は曲がりくねった上り坂で狭くて圧迫感がある。
「なんでデートなん?」
と聞こうとしたが、息が切れて会話にならない。
 しばらく細く暗い坂道を登ると、急に明るく開けた場所へ出た。ここで一息つくのかと思い、ベンチに座ろうとしたら、
「何座ってんの。まだ着いてへんで。この上に二人きりになれる場所があんねん。早く行ってみよ」
美月はまだ息が切れているオレの手を引っ張り、手をつないだまま、再び早足で登り始めた。

岩戸への道


 五分ぐらい登っただろうか、頂上に長細い穴が穿たれた大きな岩があり、岩戸と書かれた手書き看板が立っていた。他に人はおらず、中は真っ暗、出口は見えない。こわごわ覗き込んでいると「なあ、いっしょに入ろ」と、手を握られた。暖かくて柔らかい手でぎゅっと握られてドキドキする暇もなく、美月はオレの後ろにまわり、「ほな先に行って」と両手でオレ肩をつかんだ。うわっ、怖い、押すな。進むにつれて通路の幅が狭くなってきた。突然、美月が「キャッ」と叫び、オレの背中に抱きついた。
「いややわあ、首筋に水が落ちてきてん」
オレはどこへ向かって進もうとしているんだろう。余計不安な気持ちになったが、肩と背中に彼女の温もりと柔らかさを感じてちょっと幸せな気持ちになった。手さぐりで10歩ほど進むと出口の光が見えた。光が差し込んでいる曲がり角を明るい方へ折れると、拍子抜けするぐらいすぐそこに出口が見えた。
「うわぁ、いっしょに来てよかった。これで厄が落ちたかな」
美月は楽しそうである。

岩戸の入口


 岩戸を出て、崖のような斜面の手前に置いてあるベンチに座った。木々の間から眼下に京都の街が広がっているのが見える。ひんやりした心地よい風に乗って、野鳥のさえずりと三条通の坂を上るトラックのエンジン音が一緒に聞こえる。ようやく息切れがおさまったオレは美月に聞いた。
「なあ、なんで、今日誘ったん?」
「うん。ウチな、今年が女の厄年やし、ほんまに全然ええことないねん。ここの神社は伊勢神宮の遥拝所で大神宮って呼ばれるぐらい格が高いらしいし、特に岩戸は厄落としに効果絶大やって聞いたから、ずっと来たかってんけど、山の中やし、穴場すぎて誰もいてへんからひとりで来たら怖そうやし、あんたやったらヒマやろうと思って誘ってん。だって、岩戸の中に虫とかおったらイヤやん」
「えっ? オレって虫よけ要員?」
と聞こうとすると、彼女はおもむろに立ち上がり、眼下に広がる京都の街に向かって、
「うわぁ~っ」
と大声で叫んだ。突然のことにあっけにとられているオレの隣に座りなおすと、堰を切ったように喋りだした。

日向大神宮からの景色


「せっかくマニラまでついて行ったのに、コロナのせいで、ウチだけ日本へ帰らされるし、おじいちゃんとおばあちゃんが同居してるから、感染防止で実家には帰ってくるなって言われるし、旦那は仕事が忙しいからオンラインで話してもいつも半分寝てるし、旅行にも行かれへんし、ほんまに毎日ヒマで鬱陶しいねん」
「あっ、そうなんや」
「日本で住んでたマンションが持ち家で、家具やらも置いたままやったし、一人でそこで住めるから、まあよかったんやけどな、もし旦那の実家で向こうの親と同居とかしてたら、息が詰まってたぶん家出してるわ。とにかく誰かと喋りたかってん。聞いてえな、旦那のオカンの話。ウチだけマニラに残して、息子は日本に帰らしたらええのにみたいなこと真顔で言うねんで。帰ってきたときに挨拶に行ったら、ウチのことをかわいい息子を捨てて逃げてきた鬼嫁みたいに言うねんで、こっちも被害者やっちゅうねん」
「そ、そりゃひどいね」
「おもろないし、ここやったら、男の人と歩いてても誰にも見られへんと思って誘ってん。ほんまにヒマな人がおってよかったわ」
「いや、ヒマって」
「ありがとうな。お礼に途中まで手つないで歩いたるわ。三条通へ出たらもう手つないだらあかんで」
「えっ、歩いたるって・・・・・・」
坂道を下るのは楽だが、あっという間に三条通に着いてしまった。
「今から河原町で鶴田くんにランチおごってもらうねん。鶴田くんやったら、ええ店を知ってそうやし、マメやからちゃんと下調べしてそうやろ。適材適所っていうヤツやね」
と言うと、地下鉄の改札の手前でくるりとこちらを向いて、
「ほんまにありがとうな。嬉しかったし、思ってた以上にときめきを感じたわ。じゃあまたね」
とだけ言い残し、彼女は風のようにエスカレーターを駆け下りていった。
オレはさっき彼女に握られた感触を思い出しながら、やり場のない気持ちにじっと手を見るしかなかった。 (完)




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