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(私小説) 運命は扉をたたくか No9

不 思 議 な 出 来 事 

唱題


 
 これもずっと後の話になりますが、母が急に私の手を取ってじっと見ていたときがありました。あたるも八卦あたらぬも八卦といいますが、このとき母は手を見て息子の結婚線が途中で途切れているのに、黙っていたそうです。

 何しろ始めての恋愛経験で、初めての離別です。さらに私は感情が普通の人の何倍も尾を引くというタイプでしたので、別れてから実に半年以上、毎日起きている間、ずーーと彼女のことを考えていました。それはちょうどこの病気の宣告のとき、医者から聞かされた『進行性』という言葉が、何年も何年も頭から離れなかったことと同じです。粘着質というのか諦めが悪いというのか、いずれにせよ、なかなか忘れることができなかったのです。忘れることが出来なかったという事は、いつまでも苦しみを持ち続けたということでもあります。

 誰もが恋愛や離別を経験していますので、私の離別の苦しみをことさら書かなくともお分かりかと思いますが、とにかくその苦しみは、身の置き場のないという表現がぴったり当てはまるものでした。何をしていても苦しかったのです。私は毎日南無妙法蓮華経という文字を唱え続けました。なぜそうしたのでしょうか?。簡単にいうと、苦しいときにはそうすることが息をするように当たり前になっていたからです。仕事もなく、これといってすることがない私は、仏壇の前に正座して延々とこの言葉を唱えました。

 仏壇の中には、本尊といういうものが置かれていますが、この創価学会の本尊というのはなかなか面白い代物です。まず梵語(インド語)が書かれています。長方形の紙の中には、インドの仏の名前、中国のお坊さんの名前も、さらに日本の神様の名前も書かれています。長方形の中に漢字の名前が縦横に規則正しく並んでいますが、ひげ文字といわれる曲がりくねった字体で書かれていますので、奇妙な躍動感のある一幅の紙です。
 唱題が一時間を越えると足がしびれてきます。二時間を越えるとひざの関節が痛くなってきます。そして三時間を越えると痛みは足の全部の骨にまで及んできます。口を動かし続ける結果、口の粘膜がはがれました(本当です)。

 この南無妙法蓮華経という文字を唱えることを、この創価学会では『唱題』というのですが、この唱題を明けても暮れても、毎日休みなく唱え続けたのです。時に休憩を挟み、暇があれば唱題していたのです。彼女と別れて以降、延々半年にも渡り、一日三時間以上唱え続けたのです。

 といって何が起こったということもありません。私は彼女が再び振り返ってくれることだけを祈っていたのです。いささか低次元の祈りというべきかもしれませんが、こういう低次元の願いだからこそ、真剣に命の底から、うめくように唱題で来たのは間違いのないところです。私が彼女と離別以降、特記しないといけないのはこれだけで、後はごくごく当たり前の生活をしていたのです
 
 

プール


 
 話は少しさかのぼりますが、二度目の職場を辞めた後、時間が出来たのと健康のために、少し離れたところにある、障害者リハビリ施設内の温水プールに週に一、二回通い始めました。
 今から振り返ると一週間ほど前から不思議なことが起こっていました。何かが近づいている・・・大きな大きな何かが私に近づいている・・・というような感覚です。その大きさというのがまだ体験したことのないものでありながら、超巨大な何かということは感覚的に分かっていました。
 なにぶん感覚だけの世界ですので、他人にこのことを説明するのは非常に難しい話ですが、たとえてみると何十万トンもの超巨大タンカーが私の背後に静かに接近していて、それを知らない私が思わず振り返った時に、空まで覆い尽くすほどのしかかるその巨大なタンカーを見たときの驚きのようなものです。

 この時、私は小さな小さな自分が、大きな大きな自分にいきなり出会ったのです。仏教においては、こういった小さな自分のことを小我と呼ぶのに対して、大きな大きな自分のことを大我と呼びます。小我とは普段我々が自分と思っている自分そのものであり、大我とは仏教で言うところの仏を指し、この小我からは気づかれることなく、包むように広がる、広い広い大きな世界のことです。私が大きな大きな何かと呼んだものです。別の言い方をすれば幸福の極致であり、理想郷の世界になぞられるものです。

 話を元に戻しましょう。
 この温水プールはプール内にまで、プール用の車椅子で入っていけ、体が完全に水に入った段階で、係員が車椅子を抜いてくれるというものでしたので、私のように歩けないものでも、気軽に利用できることもあり、退職直後から通いだし、週一、二回のペースで、私が彼女と別れた後もずーと利用していました。

 不思議な出来事というのは、このプールの中で起こったのです。それは平成十年二月十日のことでした。いつものように、係員が車椅子を押してプールまで介助してくれました。水の浮力で私はプールの中ほどまで歩き、そこでくるっと仰向きになり、ゆっくりと背泳ぎを始めました。時間はというと正午少し前です。

 平日の正午前ということもあり、プールにはほとんど泳ぐ人はいません。そういう人たちも一人、二人と水から上がり、やがて私一人が、二十五メートルプールにただひとりとなりました。いや、もう一人、プールの監視員が私を見ていたはずですが、背泳ぎをしていた私には横に張られたロープ以外は見えませんでした。

 私は筋力がないので水音が立ちません。あたりはしーんとした静寂で、動くものもありません。私は泳ぎながら、これといった経済的負担も、借金もなく、年金だけの収入で、贅沢しない限り取り立てて困ることのない今の生活のことをぼんやりと振り返っていました。水の中では重力を感じることなく、リラックスできます。 

  ふと気がつくと、天井のガラス張りの天窓から、二月の抜けるような雲ひとつない真っ青な青空が広がっています。私はしばらくその真っ青な空を見入っていました。
 やがて私はその青空に溶け込んでいくような気がしました。なんともいえないような充実感、幸福感に包まれ始めました。何の心配も、不安もありません。こういう気分でのんびりと、ゆっくりプールに浮かんでいた、まさにそのときです。
 
 

至高体験


 
 私は不意に『それ』がもう間もなく完成する予感がしました。もう後一歩という、まさにその瞬間がやってきたのです。私があえて『それ』と表現しないといけなかったのはわけがあります。多くの人が『それ』を経験したことがないからです。いうなれば『それ』とは、人が求める最高の幸せというものです。その幸せがもう後わずかで完成するという最後の瞬間が、はっきりと感じられたのです。

 やがて欠けていた最後の幸福のかけらは、ぴたっと収まる音がして(そう感じました)、私の幸福は完成したのだということが分かりました。私の願いはすべてもう叶ってしまったのだ、もうこれ以上願うこともなくなった、私は栄光のゴールにたどり着いたのだ!、こういう実感に包まれたのです。

 飛行機に乗った経験のある方なら、雲海を突き抜けた瞬間、真っ青な空がどこまでも続くのを眺められたことがあるかと思いますが、私に起こった不思議な出来事というのは、人生の悲しみ苦しみという雲をつきぬけ、この真っ青な青空に躍り出たような感覚だったのです。

 私はその瞬間、目標を達成した充実感に包まれていましたが、あくまでそれは私の内面で起こったことに過ぎません。時間にして五分にも満たないほんの短い出来事でした。プールの監視員が私を見ていたとすれば、そこにはプールの中ほどで、ゆっくりとバタ足で背泳ぎしている、代わり映えのしない一人の障害者がいただけです。やがてプールから上がり、スロープを職員さんに押されてゆっくりと戻ってくる途中の情景は、今でもありありと覚えています。

 プールのさざなみが天井のライトに照らされてキラキラと光る様を眺めながら、私は心の中で、つぶやいていました。私の個人的な悩みはすべて終わってしまった。もうあとは他人しかない。プールに入った私と、プールから上がった私は、まったく別人でした。
 
 

幸せの中身


 
 プールでの至高体験。それは創価学会員なら誰にでも起こることではありません。私が経験した至高体験については、アブラハム・ハロルド・マズロー(一九〇八年四月一日 - 一九七〇年六月八日)というアメリカの心理学者が詳しく論じています。

その中で、至高経験とは、その名の通り、人生における最も幸せな瞬間であり、至高と言うにふさわしいほどの幸福感を感じる体験のことと定義すると同時に、妄想や幻覚ではなく、その体験を実際に経験した本人にとっては紛れもない事実であると述べています。

 しかしその一方で至高体験というのは主観的な経験であり、その性質上それを言葉で他者に伝えることが難しく説明することもできないとも述べています。

それは、むしろ特殊な体験であり、特別な感性を持つ人が、題目という精神を集中して念じた結果、普段の自分の外に広がる広い世界に、突然飛び出したということです。

 私は何を獲得したのでしょうか?。私は何かとんでもない価値のあるものを新たに手に入れたというわけではないのです。いやむしろ私の発病以来の人生は、世間で言うところの価値あるものをどんどん失う過程に過ぎませんでした。職を失うということは社会的な立場を失うことであり、ある人にとっては『自分』を失うことに等しいことです。

 収入は半分以下になってしまいました。健康を失い、歩けなくなってしまいました。歩けなくなっただけでなく、排便から、排尿にいたるまで他人の手が要ります。将来の人生設計は音を立てて崩れ、筋肉疾患は確実に、進行しています。

 私が発見した幸福の正体とは、ごくごく平凡な事実です。つまりそれは『生きている』という事実です。これだけはどんな悲惨な状況になっても最後にただひとつ残るものです。この事実だけは誰もが持っているものです。この『生きている』というごくごく平凡な事実、こんなことを取り立てて問題にするほうがおかしいと思われるかもしれません。

 しかし私は、自分は今この世に存在し、『生きている!』このことを思うだけで、限りない幸せが湧いてくるのです。生きているのが文句なしにうれしいのです。『生きている』という平凡な事実が、ここまで人を喜ばせ、幸せに出来ることを多くの人は知らないだけです。

 私がプールで体験した不思議な瞬間とは、実はこの『生きている』ということをわが身が『心底』実感したことにほかなりません。なにか特別のことを手に入れたわけではなく、もともと持っている事実を全身が分かったということです。その私に言わせれば、『生きている』というのは、それだけでもう絶対的な価値があり、光輝いているものです。多くの人はそのことを事実として『知っている』だけで、実感がないのです。

 

それから


 
 ひと時の高揚感で、私は世界で一番幸せですと言葉にすることは、珍しいことではありません。バルセロナオリンピックの平泳ぎで、金メダルを獲得した岩崎恭子は、今まで生きてた中で一番幸せですと答え、有名となりました。感情の起伏の頂点、いわば『有頂天』というのはまさにそういう状態を表す仏教用語です。上昇が急だけに、下降も早くなります。やがてそういう高揚感は失せて、代わり映えしない日常に戻ってしまいます。後から振り返り、そういうこともあったという程度になってしまうことが多いように思います。

 ところが、私の場合はそうではなかったのです。雲海を突き抜けた飛行機が、そのまま飛行を続けるがごとく、あの不思議な瞬間からずーと、その幸福感が続いているのです。
この優美な感覚をどういう風に表現したら、他人に分かってもらえるでしょうか? それはいうなれば、今まで一番好きだった恋人を抱きしめて目を閉じているような・・・感覚といえるかもしれません。

  ちょうどその頃知り合った東京女子大学准教授(当時)O先生は私を評して、起きた瞬間から寝るまで自分と自分の好きな宇宙を抱いているということを意識できるのは、すばらしいことだと思いますとメールで書いてくれました。

 三十才で進行性の難病と診断され、事実、日を追うごとに体は弱り、杖が必要となり、やがて歩けなくなり、車椅子を使う頃に、彼女と再会し、恋愛の末、自分が何かという根本的なテーマに突き当たり、人としてどう人に接したらよいのか初めて悩んだ末、この人に正しい道を示すことこそ、私の生きてきた意味と分かりました。結果は残念なことになりましたが、皮肉なことに、彼女と復縁したいばっかりに創価学会に戻り、ご本尊に命を懸けて祈り続けたことがすべてを変えてしまったのです。
 すべてを変えてしまったのです

 プールでの不思議な体験から二十年以上たちます。あれほど私にまとわりついていた『進行性』という言葉は頭にありません。それ以上に私は障害者の意識すらありません。

 マズローは至高体験とは『盲目状態で隠されていた現実が垣間見える瞬間であり、自分の目を覆っていたヴェールがなくなり真の現実を直視することになる体験だ』と言います。

私はこの瞬間、目の前のうろこがポロリと剥げ落ち、障碍者や健常者という小さな差別、区別を突き抜け、みんな同じ人間じゃないの?という平等な世界が見えたのです。認識がまったく変わってしまったのです。

 あれからずっと優美な感覚が続いていると書きましたが、縁あって二〇〇〇年から二〇〇三年まで北京で漢方治療をしていたのです。
 どこまでもあけすけな北京の人たちは、数ヶ月ごとに北京に入院する私を覚えていて、町角の店員や道路工事のガードマンたちが口をそろえてこう言うのです。
「以前に比べてすっとよくなってるよ」
 あまり多くの人に同じことを言われて、あぁ・・・またかと、うんざりしたことがあります。もちろん急に歩ける、走れるということが起こったわけではありません。車椅子は手放せません。町角の人たちが分かったのは私の顔つき、目つきが以前に比べずっと明るくなったということなのでしょう。
 
  二十代の大学生の頃、毎日毎日が悲しく暗く、何をしても心が沈むことが日常でした。思い切って大きな大学病院の精神科で診断を受けたことがあります。 医師は私にはその診断書を見せてくれませんでしたが、母が私にこっそりとその診断書を見せてくれました。診断名はうつ病。
 以来二〇年近くプールの体験まで気分は沈んでいました。
  
 マズローは至高体験を経験できたという事実自体が、揺るぎない自信や本質的な自尊心・自己肯定感、あるいは、感謝の心などに繋がると言います。

 プールの体験以降、うつ病が吹っ飛んでしまったのです。
別の言い方をすると他人のことが気になり、忙しくて、自分の事に構ってられなくなりました。生き方が変わって精神病が吹っ飛んでしまったのです。

 またマズローは至高体験によって心の健康度が増すとも語っていました。心と体は連動しています。私は体までが健康を取り戻したのです。

 病は気からという言葉があります。病気という『気』がいつのまにかなくなった頃、私の体には小さな変化が起こっていました。二月十日の不思議な体験をきっかけとして、CPK(CK)が正常値に戻り始めていたのです。(正常値 男性の場合、一リットルの血液のなかに四〇~二五〇単位)

 気がついたのは、中国の北京で血液検査をしたときです。CPKの値が一〇〇台に落ち着いていたのです。
渡航前には五〇〇あったのです。初めて大学病院で異常と判断されたとき、その数値は優に一〇〇〇をこえていました。
驚くことがあります。CPK(CK)が正常値に戻るのと連動して、

進行性のこの病気が止まったのです

 それまでは、毎年毎年体のあちこちが動かなくなり、昨年できたことが今年はできなくなり、わずか先月出来た『つま先立ち』が今月出来なくなりました。それこそが進行性だったのです。

 気がつきませんでした。去年出来たことが今年も出来ることに。
 同じ動作がずっとできることが当たり前だけに、私の筋肉萎縮が止まり、同じことが出来ることに気がついて、

病気は止まった?
病気は止まった?
病気は止まった!

と気がつきました。
 やはり私の病気は、プールでのあの至高体験の一瞬で消えていたのだと思います。その結果が現れるには時間がかかり、進行性の病気が止まったということが気がつくには、数年の時間がかかりました。

 『情けは人の為ならず』と言います。この言葉の意味は人にかけた情けは、自分に返ってくるという古いことわざですが、命をかけて人に祈った結果が自分に返ってきたのかもしれません。 プールで大きな大きな自分に出会えなければ、こういった結果は起こらなかったと思います。

 なぜそういった大きな自分に出会ったのか、、、 唯一思いつくのは彼女に会いたい会いたい一心で一日三時間ご本尊に向かったということです。創価学会のご本尊というのは単に仏様という意味ではなく、小さな自分(小我)を取り巻く広大な全宇宙を示しており、それはとりもなおさず、大きな自分であり、多くの人々の命そのものです。
 そのご本尊そのものが大きな大きな自分でしたので、一日数時間唱題をしたということで、大きな大きな自分に出会いました 。

 日蓮の手紙に
『桜梅桃李の己己の当体を改めずして 無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり』とあります。すなわち桜梅桃李といった木々が、それぞれの時に美しい花を咲かせるように、妙法によって、一切の生命がありのままの姿形を改めることなく、本来ありのままの仏界の生命を開き現していくことができると教えられている。

 私は決して崇高な祈りをしたわけではありません。ただただ彼女に会いたいと祈っただけです。その結果私自身が大きな自分に出会い、私自身が変わったのです。
まったく同じことを言った古いことわざがあります。
 
『牛に引かれて善光寺参り』
 
参考:「本朝俚諺四」「養草に云く、むかし信濃国善光寺近辺に七十にあまる姥ありしが、隣家の牛はなれてさらし置ける布を角に引きかけ、善光寺にかけこみしを姥おひゆき、はじめて霊場なることを知り、たびたび参詣して後世をねがへり。これをうしにひかれて善光寺詣(ぜんこうじまい)りと云ひならはす」
思ってもいなかったことや他人の誘いによって、よいほうに導かれることのたとえ。
  (通解)
昔、長野県善光寺の山門のすぐ近くに、七十過ぎの一人のおばあさんが住んでいました。わがままで強欲なこのおばあさんは、近所の嫌われ者でした。
 ある時、庭に干していた自分のおこしをたまたま通りかかった牛が角がひっかけて持ち去ってしまいました。強欲なこのおばあさんは、このおこしを取り戻そうと牛の後を追いかけます。牛はその剣幕に驚いて、善光寺の中に逃げてしまいます。

 このおばあさんは全く信仰心もなく、今まで善光寺にお参りしたこともなかったのに、おこしを取り戻したかったばっかりに、思わず善光寺に踏み込んでしまいます。
 そうすると、その荘厳な善光寺のたたずまいに宗教心が生じ、たびたびお参りをして、信心深い良いおばあさんに変わった。
 
 あれほど自分のことしか関心がなく、独りよがりで生きてきた四十二年目に、一人の難病女性に出会い、恋をし、自分を離れて他人のことを命がけで祈ることを覚え、大きな大きな自分の象徴であるご本尊に縁したことが、今までの行き方からより広い世界に自分を身を投じることとなりました。

  私は、この物語のおばあさんよりも遥かに遥かに『布』ならぬ『彼女』を追い求め、思わぬ結果を得たということになると思います。きっかけはある意味何でもよかったのです。大きな大きな自分の象徴であるご本尊に縁したことがすべてだったのです。



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