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文庫本

ペンネーム そら

朝は曇りでどんよりしていたような気がするけれど、今は晴れている。

本を読みすぎて頭がいっぱいいっぱいだからこそ、無理にでも空に意識を向けてみると、いつのまにか空が澄んでいることに気づいた。

今日は本を借りるために大学の図書館に行った。

本に関して、わたしは、あるシリーズを読破したいというよりは、知識を一片に偏らせたくないという気持ちが強い。だから、まずは、今借りている本の著者ではないものを探す。他にも、恋愛系のものを読んだら、もっと自然に近づけるような小説を探してみたり。まぁ、大抵、小説には恋愛が付き物のような気がするけれど、、、。

それと、私は、レビューに左右されてしまうところがどうしてもあるので、(みんなそうかなぁ)だからこそ、まずは、ぱっと見、タイトルや表紙から本を手に取りたいとは、思っている。

けれども、本屋さんに行けば、ポップを見て購入することが多い。だれかからの推しがある本の心強さは、やっぱり大きいなと思う。

それでも今日は、大学の図書館で、タイトルに惹かれて、ハードカバーの単行本を開いてみた。かなり勇気を出して。

かなり勇気を出して、というのは、初めましての本は、うまく物語に入り込めるか不透明で、それが不安だからだ。

もちろん、今の自分に読めない本はたくさんあると思うけれど、その本を今は読めないやと諦めるまでに、自分のなかでとてもとても葛藤してしまって、いよいよ、別の本に移ろうと踏ん切りがつく頃には、頭がぐわんぐわんしてしまっている。

自身を今に留めておくためのツールの一つである本が、無くなってしまったような感覚に陥ってしまい、心もとなくなる。


今まで目に留まったことのない著者の本を読むことは、まるで、未開拓の地に一人で挑むかのような心地がして、

でも、たとえば、大学の講義で先生が紹介してくれた本は、今まで手に付けたことのない分野だったとしても、案外安心して読めたりする。料理でも、食材の新鮮さや、手の込んだ経緯とかを随分と教えてもらった後に食べると、よりおいしく感じる、それと同じような。


今日選んだ本は、ハードカバーだった。ぶ厚かった。内容もホラーみたいな不思議な世界線を帯びていた。一人では自信を持って読み進められなかったことが、無念というか、これをきっかけに本を読むことが苦しくなることが怖いというか。

そもそも、最近は、文庫本を手に取ることが多かった。今日は少し背伸びをしすぎてしまったのかもしれない。

文庫本というのは、単行本が発売されてから、数年後、より多くの人に知ってもらうために、手軽な形状になったものらしい。単行本を文庫本にするかどうかも、あらかじめ吟味されている。つまり、文庫本である時点で、その本はだれかの”推し”であるということになる。

この事実を知っただけで、文庫本に対しては、手に取るハードルが減ったように思う。本そのものとしても、読み切りやすい。

とはいっても、文庫本にこだわるのも、肩身が狭くなって違うなと思う。

たくさんの本を並べて、読めるところから漁ってみるようにしたいな、だとか、

うん、そう、孤独感が強いと、何かに没入するということに、こだわりすぎてしまって、

自分のなかで、「文庫本なら大丈夫、読めるから。だから手軽に手にとっても安心なはず」と、あれやこれや、考え込んでしまっているときに、

大学講義終わりのチャイムが鳴る。

あぁ、もう次の講義がはじまってしまうと、重い腰をあげて、教室に向かって歩いていくと、顔なじみの子と合った。

あんなに考え込んでしまっていたのに、ほんの少しの会話だけで、自分のなかにあたたかさが通っていく感じがした。

一人でいるときは本を読んでいるしかないけれど、然るべきときには、だれかと話せるターンがやってきて、

それは、本当に偶然のできごとだから、すぐに忘れてしまうけれど(話せることに期待をしすぎると心ここにあらずになってしまう…)、

そういうちょっとした、すぐに忘れてしまう、でもあたたかい出来事のおかげで、なんとか日常を乗り越えられているのかもしれない。








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