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「私たちは『買われた』展」盛岡にかけた想い

これから掲載する文章は、私も実行委員として関わった写真企画展:「私たちは『買われた』展」盛岡と併催したスペシャルトークイベントにて、私、鹿音のんが発表した原稿である。一部細かい改変はあるもののほぼ原文。イベントの詳細についてはこのリンクと下記ツイートを参照のこと。

お話、ありがとうございました。

簡単に自己紹介させていただきます。
鹿音のんと申します。
生物学的には男性ですが、今はトランスジェンダーとして生活しています。
現在ソーシャルワーカー、相談員として、日常の困りごとや悩みを聴く仕事をしています。
仕事柄、10代・20代の性暴力被害に、支援者として関わることもあります。

さて、これから私がこの企画展に関わっている想いを皆さんにお伝えしたいです。
正直な想いを伝える関係上、性暴力被害・加害に関して皆さんにつらい思いをさせるかもしれない表現を用いることがあります。
つらくなりそうな方は今からでも、また話の途中からでも、遠慮なく退出してください。

さて、なぜ「私たちは『買われた』展」に私が関わるのか。
日頃の相談経験から、また、私自身の経験から、男性達に潜むある価値観をぶっ壊したいと考えているからです。
その価値観とは、
「女性は快楽のための消耗品」
「お金で買えない快楽はこの世にない」
このような間違った男達の価値観にくさびを打ちたい。
今回の展示には間違いなくその力があります。

企画展のタイトルにもある「買われた」少女たちのそばには、必ず「買う男」が存在します
私は生物学的に男性に生まれ、男性として社会に育てられた経験上、「買う男」がどんな人間か、ある程度想像がつきます。

「買う男」達は、どこにでもいる普通の男性の姿をしています。
見た目では判別できません。
決して、地位と名誉ある権力者であるとも、大金持ちであるとも限りません。
決して、常日頃からあらゆる女性たちを支配したがっている性欲のモンスター、という訳でもありません。
決して、いわゆる「オヤジ」・中高年に限りません。20代・30代の比較的若い男性もいます。
決して、モテない訳ではありません。パートナーがいる人も少なくありません。
アダルトサイト、出会い系サイト、性風俗に人並み以上に関心があるかといえば、そうとも限りません。
しかも、ニュースで流れる強姦事件や売買春事件に対しては、「それをやっちゃいけないでしょう」と、人並みに憤る反応ができる程度には、実は道徳心も持ち合わせています。

でも、条件さえ揃えば、彼らはいとも簡単に少女たちにお金を渡してしまうのです。
買う時だけは、少女たちは消耗品なのです。
「お金で快楽が買えるなら安いもの」
「対価を渡している以上、どんな要求でも同意してくれるはずだ」
「お金を払えばお客様であるこちらが上、何をしてもバレなければ問題ない」
「ただの需要と供給、都合が悪くなれば捨てても構わない」
「こちらも快楽を味わっているなら、向こうも快楽を味わっているはずだ」
このような間違った認識・歪んだ価値観によって、多くの少女たちが日々買われているのです。性暴力被害に遭っているのです。トランスジェンダーも例外ではありません。

そして、私たちの住んでいる日本社会は、こうした間違った認識・歪んだ価値観を今でも再生産し続けています。
岩手県でもそうです。職場の上司に誘われたから、つるんでいる遊び仲間がやっているから、飲み屋でそういう話になったから、たまたま出会い系サイトで知り合ったから、……
このように、「買う男」たちがこの日本にはびこっているのは、「性的快楽は手軽に金で買って構わない」という間違った認識によって、女性やLGBTQも含めた異なる性別を生きる人を人として丸ごと尊重する感受性を麻痺させられているからでしょう。

私は30歳でトランスジェンダーとして、鹿音のんとして、生きると決めました。
そのことは同時に、これまで私自身の内側にも知らぬあいだに植え付けられてきた男性特有の様々な間違った価値観が自分にもあるのだということをはっきりと認識する事でもありました。
私はそれらの価値観と戦う決断をしました。
過去の自分自身とも真っ向から戦うのはつらいことです。
でも、きちんと向き合おうと決めたのです。
自分らしく生きるため、他人も自分も傷つけたくないため、それももちろんあります。
ただそれ以上に、私は純粋に人を人として誠実に尊重することを喜びとしたいのです。
少なくとも、少女たちをお金で買うような男たちの考える快楽と、本来私の魂が望んでいる快楽とは、全く別物だと、自己認識を書き換えることはできます。

そのために、自分の内側に耳を傾け、何年もかけて丁寧に自分との対話を重ねてきました。
フラワーデモにも参加しました。そのご縁もあって、今買われた展の運営にも携わっています。
ここでこうして関わって下さっている全ての人が、私に対話のチャンスと、大きな気づきとを与えてくれています。

間違った価値観は、「それは違う」と頭ごなしに否定し論破して、それで終わりにできるものではありません。
どこが間違いなのか、ちがう考え方ができないか、常に相手に問い続け、自分の頭で考えるきっかけを与え続け、丁寧に対話していくしかないと、私は感じています。
思うに、「買う男」達に欠けているものは、対話ではないでしょうか。
世の男性たちの多くは、自分と異なる性別の人間と、対等な立場に立って、相手の発している声に丁寧に耳を傾け、お互いの違いを尊重しつつ、自分自身と向き合っていく作業を、まともに経験したことがないはずです。
「私たちは『買われた』展」は、その数少ない対話のためのきっかけ、チャンスだと考えます。

今回の展示を、「こんな悲しい事があってかわいそう」だとか、「こんなことはあってはならない」だとか、単なる道徳的なカテゴリーに当てはめて、片付けて欲しくはありません
どうかみなさんには、買われてしまった女性たち、買う男に傷つけられた女性たちの声と、対話していって欲しいし、できれば買う男とも対話をして欲しいと思います。一つ一つの写真とキャプションをじっくり味わって、しっかり耳を傾けて欲しいと思います。
私の願いはそれだけです。ご清聴ありがとうございました。


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