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『街とその不確かな壁』(村上春樹)を読んで②

『街とその不確かな壁』も深い世界に連れて行ってはくれなかった。

なんて書きながらの2稿目。

前の記事で書いた「自意識との向き合い」は村上春樹的物語の特徴である。自己の内面世界との向き合い、そして他者の内面世界との地下での接続。そういう構造。

今回の主人公「僕」は、少年時代のある少女とのやりとりからその内面世界に囚われてしまい、青年期壮年期と、その少女への憧れや精神的依存が継続した。そこに生じる苦しみなり癒しなりエスケープなり没入なりが「自意識との向き合い」である。

ここまでは目新しい流れではなく、今回特徴的なのは、40年間?も「継続」されていたことだ。
ひたすらに自分と対話するのだ。言ってみれば「それだけ」なのだ。


だから非常にイタい。

僕も「ここではない、しかしここと確かに繋がっているドコカ」、そんな世界に惹かれていた。映画『秒速5センチメートル』に憧れていた時もあった。
でも、そんなところにいつまでもいられない。
幻想の世界には終わりが来る。通常は。


一方で「僕」のイタい人生は人を救う。

憧れを終わらせなかった「僕」は、そうであるからこそ同じようにその世界にを求める「イエロー・サブマリンの少年」にとっての先駆者となり、「少年」の救世主となった。


僕がこの物語のハイライトだと感じたのは、そんな自意識の終焉である。

物語の第二部では、「僕」は福島県のとある村の私設図書館の図書館長となり、その村の人間として生活を送っていく。そしてそこでようやく現実世界との結びつきの実感を得ていく。

村上春樹的キャラクター設定とまわりくどい表現を抜きにしてこの村で出会う人たちを表せば、「優秀な仕事仲間」であり、「気の合う恋人」であり、「頼りになるメンター」であり、「手触り感のある日々の生活」であり、会話、睡眠、散歩、恋である。

なんとも普通だ。圧倒的現実感。

イタく厄介なナルシシズムの果てに行き着くのは、現実世界の実際的な生活なのではないか。
「結局、目の前の生活と小さな喜びだ」と辿り着くためには、人それぞれ、なにに喜びなにに悲しむかという自己との向き合いが必要なのではないか。

自分はどんな世界を持っているのか、自分には世界はどのように見えているのか。影法師があることを当たり前にしないように、自意識と向き合い自覚することが現実世界と向き合う武器になることに気が付く物語だった。

そうしてカフェを見渡すと、たくさんの人の自意識とそれに付随する現実世界が無数に交差していることがわかる。





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