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アイ・イン・ザ・ファクトリー 世界一効率的な町工場(前編)

黒い渦が揺らめいている。厳密には深い茶色だが、この薄暗い部屋の中では黒色と表現して差し支えない。紅茶の表面を、渦状にゆらめきながらゆったりと霧散していく黒い液体は、2025年ころに発見された「モルテー酸」と呼ばれる物質を含んだリラックス液剤「モルスリープ」である。睡眠導入剤と比較しても、健康への悪影響が極めて限られているといわれており、健康補助食品として扱われている。あくまでも、現時点において、という留保がついているが。

浅和太郎は、この渦をぼんやりと眺めていた。今夜は、規定使用量の1.5倍を注いだ。非水溶性のモルスリープは、紅茶の底に沈殿していった。

濁った紅茶を一気に飲み干した浅和は、ソファにうつ伏せに倒れ込み、そのまま動かなくなった。遠目からは死んだようにも見えるが、近づいてみると、静かに呼吸していることがわかる。リビングの壁のうち一面はディスプレイウォール、つまり全面が有機ELディスプレイとなっており、その一角の時刻表示エリアには、午前1時12分が投影されていた。

いまは2032年1月。浅和は従業員7人の金属製品工場「浅和製作所」を経営しているオーナー社長だ。もともとは財閥系の重工系企業に勤めていたが、42歳のときに3代目として経営を引き継ぎ、以来6年間、現場に立ち、工場を切り盛りしている。

意識を回復した浅和が目を微かに開いたとき、壁は午前3時25分を投影していた。「あと1時間か。」そう浅和は呟いて、再びまぶたを閉じた。

浅和の祖父が立ち上げた工場は、その高い技術・提案力・品質が評判を呼び、一時は80人規模にまで拡大した。しかし、その後は縮小の一途をたどり、現在の体制に至っている。決して顧客が離れていったわけではない。むしろ、5Gがほぼ日本全土に普及した2026年以降、いわゆる「日本のIoT化」が国策レベルで強烈に後押しされた。端的にいうと、オフラインで用いられていた製造設備類をコネクテッド化されたものに買い替えると、その半額について自治体から補助金が支給されたのである。減価償却が終わっていない製造設備類についても入れ替えが進み、日本の製造業界にとっての強烈な追い風となっていた。

しかし、浅和の工場は、高齢化した従業員の引退が相次いだことで規模は縮小の一途をたどり、この神風が吹いた時点では、それを受け止める帆を持ち合わせていなかった。

引退した従業員らは、働く意欲は旺盛であった。若返りのテクノロジーは現在もいまだ研究開発段階であるものの、アンチエイジングについては高度化が進んだことで、70歳の従業員も、肌つやよく、見た目には若々しく、その臓器は至って健康だった。しかし、筋力・体力的には長時間の立ち仕事に耐えることはできず、やむなく工場を去って行った。彼らの行先は、エクソスケルトンと呼ばれるような、高齢者向けの筋力補助装置や筋力補助スーツを標準導入している大型工場だった。

浅和は若い社員の採用を試みたものの、奏功しなかった。正確にいうと、そもそも採用に時間を割く余裕がなく、「試みた」と言えるかどうか疑わしい。また、それ以前の問題として、メーカーや製造ドメインでの就業を望む若者は極めて限られていた。学士課程を終えたマジョリティ層、いわゆる保守的な層のほとんどは、親の勧めもあり、ソフトウェア系の企業に殺到した。メーカーやハードウェア系の企業に在籍するのは、今となっては高齢者かリスク志向の高い奇特な若者だけである。

ディスプレイウォールは、午前4時30分を表示した。浅和は、ディスプレイウォールが放つ目覚まし用の白光に包まれた。心労が刻み込んだ眉のしわが、微かに深くなった。

浅和はメリハリのある男だ。二度寝はしない。睡眠不足を一切感じさせない機敏な動きで垂直に立ち上がり、シャワー室に向かって右足を踏み出した。その向かう途中、視界の左隅に入ったのはディスプレイウォールに投影された、簡素なデザインのバナー広告だった。

「最短1日で、製造現場をIoT化!超効率化を実現しませんか?デバイス即日発送、いまなら初月3カ月無料。」

部屋には誰もいないにもかかわらず、浅和は見て見ぬふりをして、立ち止まらずそのままシャワー室に入った。しかし、その文言は、浅和の前頭葉をわしづかみにして離さなかった。昨晩は、当月売上が、これまでぎりぎり耐えていた損益分岐点をついに下回ったことが判明した日だった。

浅和の頭脳と精神は、生産現場の“カイゼン”ついての悩みで常に澱んでいた。毎晩のように飲む、あの紅茶のように澱んでいた。それは、攻めとしての生産性向上ではなく、減少していく働き手をいかに補填するかという問題と、“カイゼン”しないと損益分岐点を超えられず、経営が立ち行かないという生き残りのための生産性向上の問題だった。

減少する労働力を補填するために、汎用型ロボットアームの導入も検討したことがある。月額課金なのでイニシャルコストは抑制できるものの、その月額の費用すら負担するのが苦しかった。また、“カイゼン“のためには避けてとおれない、ラインの稼働率、設備の停止時間、サイクルタイムの遅れ、一人当たりの生産性の定量的把握は、まったくできていなかった。無論、停止要因など把握できるはずもない。これらを把握するための調査をする時間的・人員的余裕がなかった。職人芸や勘に頼る経営が続いていたが、果たしてそれは経営と呼べるのか。

浅和は自嘲した。「なんでもかんでもコネクテッドの時代。それを支える町工場が、コネクトされていないという。まさに、医者の不養生ならぬ、町工場の非コネクテッド。」

浅和は、これまで何度も、製造現場のコネクテッド化の検討を重ねてきた。しかし、設備の入れ替えについて半額について補助金が出るとはいえ、キャッシュフローは厳しい。また、設備を入れ替えてオペレーションを組みなおすとなると、ラインの操業を一定期間停止せざるを得ないが、経営的にそのような余裕はなかった。つまるところ、浅和の工場は、未来に向けた投資が一切できない負のスパイラルに陥っていたのだ。

浅和は髪の毛を乾かしながら、ぼんやりと考えた。「最短1日で工場をコネクテッド化するというのは、どう考えても非現実的である。あるいは特殊なケースをことさらにアピールしているにすぎない。下手すれば、何かしらの詐欺である。結局、これまでも、これからも、大手しかコネクテッド化は実現できない。仮に最初の3カ月で解約したとしても、デバイスを引き取りにきた営業マンが何かを押し売りしてくるのだろう。社会的弱者を狙ってこういった商売をするなんて、本当に世も末だ。俺をだませると思うなよ。」

その一週間後、光沢ある乳白色の薄い円盤たちが、室内に注ぎ込む朝日の光にきらめきながら、浅和の仕事机を占拠していた。

後編につづく)

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