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「ロジカルできれいな整理」との付き合い方

下記は、宮野公樹「問いの立て方」に登場する一文です。

あれはあれ、これはこれと単純に分解できない議論の対象を「えいや」でプロットし、整理した気になっていた過去の自分を見て未熟という感情を持ちます。

たいていの物事は、ロジカルに整理したほうが人に伝えやすいし、シンプルなフレーズに落とし込んだほうが記憶に残りやすいし、こういった整理をするプロセスにおいて新たな発見があることも少なくありません。

言葉や図で綺麗に整理すること。形容詞を排除し、定量的に表現すること。これはビジネスにおいては非常に重要な所作であり、戦略コンサル出身者が重宝されるゆえんです。自分自身も日々からこころがけていることですし、元弁護士として三段論法や構造化・体系化は身体に染みついています。フォーマット化・マニュアル化も趣味のようなもので、書籍もその延長線上で執筆しています。

しかし一方で、こういった習慣には危うさも感じています。物事を別の言葉で、あるいは数字で表現することは、決して簡単ではなく、アナログ音源をデジタル音源に変換するときのように、失われている情報があるのではないかと思うのです。

マイケル・ラドフォート監督の「イル・ポスティーノ」では、

君が読んだ詩を別の言葉で表現できない。詩は説明したら陳腐になる。どんな説明よりも、詩が示す情感を体験することだ。詩を感じようとすればできる。

という名言もあります。そのまま感じとらなければ正確に物事を理解することができない場合があるはずなのです。また、映画監督スタンリー・キューブリックも、

一本の映画や演劇が人生の真実を本当に語ろうとするなら、それは安易な結論や紋切り型の思想に陥ることを避けるためにも、間接的な手法を取らなければならない。伝えようとする視点はありのままの現実に重ね合わせた上で、観客の意識の中にさりげなく注入されなければならない。真実を捉えた有意義な思想とは、概して多面的であるため、それ自体が真正面からその存在を知らしめることはない。(1960年「サイト&サウンド」)

と言っています。我々は、「直接的」なアプローチで物事の一面だけを切り取り、「安易な結論や紋切り型の思想」で満足してしまう危うさと隣り合わせなのです。

決して言語化できない、定量化できない、しかし深層レベルにおいては確実にそこにある根源的なもの。身体レベルで知覚できる、ざらざらした手触り感。それを四象限に(無理やり)プロットしたり、数字で表現したり、一般的に通用する汎用的な言葉に置き換えてしまうことは、「安易な結論や紋切り型の思想」への第一歩かもしれません。

「分かりやすさ」が高く評価される現代においてこそ、この危うさに自覚的でなければなりません。起業家も、少なくとも社内向けには、一般的に通用するフレーズ(SaaSとか、サブスクリプションとか、DXとか。)に安易に頼ってしまうことを避けなければなりません。自分なりの、ざらざらした表現にこだわる必要があります。

遠山正道氏の「新種のimmigrations」の企画計画書は、一枚のスケッチだといいます。例えば、企業のミッションやビジョンは、もし適切な言葉が見つからない場合には、イラストで、なんなら映像で表現してもいいのではないでしょうか(さすがに事業計画書はスプレッドシートで作ってほしいですが)。

起業家はアーティストであり、事業は自己表現・自己実現の一種です。起業家は、アーティストとしての衝動の言語化できない生々しい情感を大事にするべきだし、また、投資家としても、その情感にきちんと向き合っていかなければならないなと感じています。

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